姉川の戦い(「どうする家康」45)
「どうする家康」第14回では、「姉川でどうする!」というタイトル通り姉川の戦いを中心に描かれていましたので、今日は姉川の戦いについて書いてみます。
姉川の戦いは、元亀元年(1570)6月28日、近江国の姉川を挟んで、徳川・織田連合軍が、浅井・朝倉連合軍と戦い勝利した戦いです。姉川は伊吹山地を源として、滋賀県北東部を流れ、琵琶湖に注ぐ川です。その中流の野村・三田村で戦われました。
織田信長は、越前から朽木谷を越えて、4月30日に京都に帰還しました。京都に帰還した信長は、浅井長政攻撃の陣を起こすため、本拠地岐阜に戻ることとしますが、近江では、既に反旗を翻した浅井長政に加えて、上洛途上に一度は敗北した六角承禎(しようてい)が長政と連携して蜂起する気配を示していました。 そこで、こうした動きに備えて岐阜への通路を確保するため、信長は、守山城に稲葉一鉄、宇佐山城(大津市)に森可成、永原城(野洲市)に佐久間信盛、長光寺城(近江八幡市)に柴田勝家、安土城に中川重政を置くなど近江の各地に有力武将を配置しました。
これに対し浅井長政は鯰江城(東近江市)に軍勢を入れ信長の岐阜への通路を妨害し、さらに朝倉義景は、5月11日、一門衆の朝倉景鏡を総大将とする2万の軍勢を北近江に進発させ、近江に進出した景鏡は、近江・美濃国境付近にまで進出し垂井・赤坂の村々を放火して回ったため、信長は、日野の蒲生賢秀(がもうかたひで)などの協力を得て、当時近江から伊勢に抜ける山越えの道であった「千草越え」の道を利用し伊勢経由で帰ることとしました。
この千草越の途中の山中で信長は六角承禎に頼まれた鉄砲の名手杉谷善住坊に鉄砲で命をねらわれました。「信長公記」には、二発が「御身に少しづつ打ちかすり」したと書いてあり、危険な目にあいましたが、信長は運よく大きな負傷をすることなく5月21日岐阜に帰還しました。
岐阜に戻り態勢を立て直した信長は、近江攻撃の準備を進めます。6月に入ると六角承禎(しょうてい)が甲賀衆などを糾合して挙兵し、柴田勝家や佐久間信盛を攻めようとしましたが、勝家・信盛は、野洲川の戦いで、六角軍を破っています。さらに、木下藤吉郎の家臣竹中半兵衛が、近江・美濃国境近くの長政配下の長比(たけくらべ)城の堀秀村と樋口直房を調略で寝返らせることに成功しました。さらに、近江に進出していた朝倉軍は6月15日、越前に撤兵しました。
こうした情勢を踏まえ、信長は6月19日に岐阜を出陣し、21日に小谷城に迫り、信長は虎御前(とらごぜん)山に陣をすえ、勝家らに命じて城下諸所を放火させましたが、堅固な小谷城を攻略するのは困難と判断し1日で攻撃を中止し撤退し横山城を包囲させ、24日に横山城と姉川の間にある龍ヶ鼻(長浜市)に本陣を構えました。ここに5千の軍勢を率いた徳川家康が参陣し、家康もここに本陣を構えました。
これに対し、長政は5千の兵を率いて横山城救援のため出陣し、浅井救援に出馬した朝倉景健(かげたけ)を総大将とする朝倉勢8千とともに、一旦、大依(おおより)山に陣を敷いていましたが、6月28日未明に姉川に向かって出陣し、姉川北岸の野村と三田村の二手に分かれて陣取りました。
これに対して、織田信長は「陣杭の柳」に、徳川家康は「岡山」にそれぞれ本陣を移し、姉川北岸に布陣した浅井・朝倉連合軍のうちの西の三田村に布陣した朝倉軍に対しては徳川軍が、東の野村に布陣した浅井軍には織田軍があたりました。
午前6時ころ、朝倉軍と徳川軍との衝突で姉川の戦いがはじまりました。当初は、朝倉軍が優勢でしたが。榊原康政が側面から朝倉軍を突き、形勢が逆転しました。一方、浅井軍と織田軍の戦いでは、浅井軍が優勢で、織田軍は、信長本陣近くまで切り崩されたと言います。しかし、横山城を監視していた稲葉一鉄ら西美濃衆が戦いに加わったことにより織田軍が優勢となり、終に浅井・朝倉連合軍は敗北し、北へ退いていきました。
信長は、小谷城近くまで追撃させ、小谷城下の家々に放火させましたが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ引き上げたのち、横山城の攻略に着手しました。横山城はまもなく降伏し、信長は城番として横山城に木下藤吉郎を入れています。

