家康、姉川で先陣を請い願う(「どうする家康」46)
「どうする家康」では、姉川の戦いの際に、徳川家康は、織田信長から先陣を命じられていました。そして、命じられた家康は不貞腐れた顔で軍議の席を去っていました。しかし、『三河物語』によると、徳川家康は信長に無理強いをして先陣を承っているようです。
『三河物語』では、次のように書かれています。
家康は信長から毛利新助を通じて、「明日の合戦の備えは、一番隊は、柴田勝家、明智光秀、森可成に申し付けたので、家康は二番隊を頼む」と命じられました。これに対して家康は「どうせ加勢をするのですから、ぜひとも一番隊を申し付けてください」と返事をしました。これに対して信長は、「家康の言い分はもっともだけれど、すでに一番隊には命じてしまっているため、これをやめさせるのもどうかと思うので、二番隊でお願いしたい」と改めて命じました。しかも、「一番隊も二番隊も同じで、二番隊といっても戦況によっては一番隊となることも多いので、とにかく二番隊でお願いしたい」といってきました。しかし、家康は、再度の命令にも納得せず、「二番隊が一番隊になると言っても、後世の書物には一番隊は一番隊、二番隊は二番隊と書かれて後世に残るでしょう。ですから、とにかく一番隊を申し受けさせていただきたい」とお願いしました。その上で、「自分がすでに年寄りならば、三番隊、四番隊でも、命じられたとおりにいたしますが、30歳にもならない者が援軍にやってきて、一番隊を命じられず、二番隊だったと後々まで言われるのは迷惑千万です。とにかく一番隊をお命じください。そうでないなら、明日の合戦には出撃しません。そして、本日、軍を撤収させていただき国に帰ろうと思います」と言ってお願いしました。
そこまで言われた信長は、家康の要望を受け入れて、家康に一番隊を命じました。それに対して、諸将からは不満の声がでますが、これは信長が一喝して収めて、家康が一番隊となったと『三河物語』には書いてあります。
この内容を読むとあまりにも家康が格好良いように思えます。『三河物語』は、旗本大久保彦左衛門が書いたものですし、寛永年間に書かれたとされているものですので、このように、家康を格好良く見せて書いたのかと思いました。しかし、合戦の当日付で信長が足利義昭の側近細川藤孝に送った書状のなかに次のように書かれています。
「今度岡崎家康出陣、我等手廻(てまわり)の者どもと一番合戦の儀、これを論じるの間、家康申し付けられ候。池田勝三郎(恒興)、丹羽五郎左衛門(長秀)相加え、越前衆に懸り候て切り崩し候。浅井衆に、手廻の者どもにその外相加え、相果たし候」
この手紙の内容は「今度の合戦に徳川家康が出陣し、信長の馬廻りたちと先陣について言い争いになり、家康が先陣を申し付けられ、家康には池田恒興と丹羽長秀を付けて、越前朝倉の軍に当たらせ、浅井軍には信長の馬廻りとその他で戦った」と書かれています。先陣争いの内容が『三河物語』のようなやりとりだったのかははっきりしませんが、家康が先陣を勤めたのは史実のようです。
なお、元亀元年(1570)6月28日の姉川の河原で行われた徳川・織田連合軍と浅井・朝倉連合軍の戦いは、「姉川の戦い」あるいは「姉川合戦」と呼ばれていますが、当時の書物で、織田家と浅井家の書物ではそれぞれ「野村合戦」と記録されていて、朝倉家の書物では、「三田村合戦」と書かれているそうです。一方、徳川家では当初は「江州合戦」と呼んでいましたが、『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』には「姉川合戦」や「江州姉川合戦」と表記した例が多いそうです。こうしたことから「『姉川合戦』と表記すること自体が徳川家康中心史観の産物といえる」(「浅井長政のすべて」所収)太田浩司著「姉川合戦をめぐる史実と逸話」より)という見解もあります。

