浅井長政、裏切りの理由(わけ)(「どうする家康」47)
織田信長と同盟を結んだうえお市を嫁としていた浅井長政が、なぜ織田信長を裏切ったかについて、従来は、長政の祖父亮政以来の朝倉氏に恩義があり、その恩義を大事にしたためであると説明されることが多かったように思います。
そして、軍議を開いた際に父久政が朝倉氏の旧恩を強く主張し、長政も仕方なく、それに従ったと説明されることも多いように思います。この話は織田信長の事蹟を編年的に記録した「総見記」(国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます)に次のように書かれています。
「(信長が越前に討ち入った事態をうけて)ここに浅井下野守久政は、この由を怒って、子息備前守長政、その外一門家老を集め詮議して、信長先年起請文の約束を背き、只今朝倉退治の為に越前へ発向の事、前代未聞の表裏なり。かように手の裡を返すごとくにては、越前よりの帰りがけに当城へ押し寄せ、我等父子をも攻めらるべき事、鏡にかけて明かなり、早く此方より別心の色を立て、朝倉一味の兼約の義相守るべしと有りける」と主張します。それに対して遠藤喜右衛門や赤尾美作守が信長に援軍を送るべきだと反論しますが、久政は賛成せず、その他の家臣も、口々に信長を信頼できないので離反すべきだと主張するので、「備前守長政も、今更縁類のよしみを以て父の命に替え難く、野州も備州も同意、この上はいよいよ以て朝倉と一味し、この度、謀反して跡先よりたてはさみ、信長を打って取るべしとぞ、相定められにける。」
こうして、長政は、朝倉氏との兼約(かねてからの約束)を守るよう主張する久政の意見に従って信長を裏切ることとなったといいます。
しかし、長政は父久政をクーデターのような形で当主から追放して家督を継いでいますので、「総見記」のように久政の意向を聞いたうえで浅井家の方針を決定することがあるのか疑問に思いました。そこで、長政が裏切った理由について調べてみました。
小和田哲男氏は、『浅井長政とその時代』(『浅井長政のすべて』所収)で、「太田浩司氏は、亮政・久政段階で、浅井・朝倉同盟が成立していたことを示す史料が皆無であることを明らかにし、「亮政以来の旧誼」といわれることについては再検討すべきことと主張している」と書いたうえで、「『亮政以来の旧誼』というものが確実でないとすれば、ほかにどのような理由が考えれるか」として、①長政に相談なく朝倉攻めに向かったことで浅井家中に信長に対する不信感が芽生えたこと、さらに六角攻めに対する褒賞がなかったことについて不満があったかもしれないこと、②足利義昭が裏で画策していていたことにより裏切ったのではないかとしています。
金子拓氏は、『織田信長 不器用すぎた天下人』の中で、宮島敬一佐賀大学教授や太田浩司元長浜城歴史博物館館長の説を次のように紹介しています。「(宮島敬一氏の指摘は)『天下静謐』をめざす信長の政権構想についてゆけず、絶え間ない軍事動員に疲弊し、支配の論理にも相違があった。このための離叛であったという。いっぽう太田(浩司)氏は、『このまま信長との同盟を続ければ、その家臣団の一部に包摂(ほうせつ)され、一大名としての独立性を失うと判断した』ためではないかとする。わたしの結論も、この太田氏の指摘に落ち着く。」
なお、柴裕之氏は、『織田信長』(平凡社刊)で「浅井氏はこの時、織田・朝倉両家と両属関係を持つ国衆であったことは間違いない。そしていま、浅井氏が関係を持つ織田・朝倉両氏が抗争することになった。この状况下で、浅井氏が領国「平和」を維持していくためには、両属関係のままでは難しく、織田・朝倉両家のどちらにつくか、選択することがせまられた。そして、浅井氏が選んだ『道』は、朝倉家への従属関係を優先することだった。」と書いています。
以上、いろいろな研究者の見解・主張を調べてみると、「浅井長政は朝倉氏への旧恩を重視して織田信長を裏切った」という従来の説は勢いを失っているように思います。特に父久政の主張に引きずられて朝倉氏に味方したと説明する人はほとんどいないように思います。長政が信長を裏切ったのは長政自身が浅井家をどう存続させるかを考えたうえでの判断だったようです。

