家康、浜松城に移る(「どうする家康」48)
徳川家康は、姉川合戦の3ヶ月余り後の元亀元年(1570)9月12日に浜松に本拠を移転しました。
今川氏真が掛川城から退去し遠江一国を手中にした徳川家康は、居城をそれまでの岡崎から遠江国内に移すことで、領国の支配の強化と安定をはかろうとしました。
家康は当初見付(磐田市)に拠点を構えるため、新たな城を築き始めました。この城は現在は城之崎城と呼ばれています。見付は、国府や守護の役所(守護所)が置かれた古くからの遠江の政治の中心地で、本格的な遠江経略に乗り出そうとする家康が最初に選んだのも当然でした。
しかし、織田信長は見付を拠点とすることに反対し浜松(当時は引馬)を推したといいます。「当代記」は「六月見付より浜松へ家康公移り給う。まず故飯尾豊前が古城に在城し、本城普請あり。惣回り石垣、その上何れも長屋建てらる。見付普請相止(あいとめ)らるる也、これ信長の異見(意見)により、かくの如くし給う。遠・三の輩、何れも在浜松す。9月12日、本城へ家康公移らしめ給う」とあります。※当代記は、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。原文は漢文ですので、読み下しは本多隆成氏の「徳川家康と武田氏」(吉川弘文館刊)を参考にさせていただきました。
信長は、武田信玄との戦いを想定した場合、見付が天竜川の東側にあって、駿河から信玄が侵攻してきた場合、信長から援軍を派遣しにくくなるので、天竜川の西側にあって、対信玄戦で天竜川を防衛線にすることができ、援軍を派遣しやすい浜松を推したといわれています。
家康は信長の意見を重視して、既に開始していた城普請を中止し、三河・遠江のほぼ中央に位置する浜松に居城を新たに構えることにしました。
この時、見付で築城されつつあった城は、「城之崎城」であったと考えられています。城之崎城の本丸跡は、現在は、磐田市の城山球場となっています。球場となっているため、城の名残はほとんどないようですが、高さ約10メートルの城の土塁は球場スタンドに活用されていて、かろうじて城之崎城の名残りを残しているようです。
浜松城の元となった引間城は今川氏の家臣飯尾氏の居城でした。家康は、引間城の西側方向に拡大し新たな城を築城しました(これが浜松城です)。家康は、移転にあわせて、この城を浜松城と名付け、元亀元年(1569)9月12日に移転しました。
浜松という地名は、家康が名付けたという言い伝えもあるようですが、浜松市役所のホームページには、浜松市内の伊場遺跡から出土した奈良時代の木簡に「浜津」の地名が書かれていて、これが浜松市の地名のおこりとされ、平安時代の「倭名類従抄(わみょうるいじゅうしょう)」に「波万万都(はままつ)」の名が書かれているとされています。これに従えば、すでに平安時代から浜松という地名はあったことになります。家康が引間城から浜松城に名前を変えたのは事実でしょうが、浜松の名づけ親であるという説には疑問が残ります。
家康が浜松に移転するに際して、嫡男の信康を岡崎城主としました。信康は8月に12歳で元服していますので、当時としては立派な成人という扱いですが、まだ心もとないので、駿府時代を共に過ごし信頼できる石川数正や平岩親吉を側に置き補佐させました。その平岩親吉にあたえた10月2日付け家康自筆の書状が残されていると浜松市史に書かれています。その内容は、「その方は三郎信康について岡崎城を留守せよ。信康のことはその方にまかせる。この名刀は納戸に蔵めておけ。委細は使者一衛門が申しのべるであろう」という内容とのことです。
家康は、元亀元年(1570)9月に浜松城に入城し、天正14年(1586)12月駿府に移りました。年齢でいえば29歳から45歳になるまでの16年間、浜松城に在城しました。

