引間城跡〈元城町東照宮〉(徳川家康ゆかりの地42《浜松②》)
徳川家康が浜松城を築城する前には、浜松には引間城がありました。引間城は、家康が遠江に侵攻した頃には、飯尾連龍が城主でした。この飯尾連龍の正室がお田鶴様でした。家康侵攻の際に、家康に抵抗して、見事な最後を遂げた姿は「どうする家康」で描かれていました。
浜松城は、引間城の西南方向に新たに築かれた城で、三方原台地の東南端、天竜川を望む河岸段丘のうえに築かれました。家康は引間城に在城して浜松城の築城を指揮したと『当代記』に書かれています。
現在、引馬城跡には元城町東照宮が鎮座していて、今年の1月に浜松を訪ねた際にお参りしていますので、今日は、元城町東照宮をご案内します。(下写真は鳥居)

元城町東照宮は、浜松駅からは徒歩で20分弱かかります。私は浜松八幡宮や椿姫観音にお参りしてから訪ねましたが、引間城の本丸跡だけあって、小高い丘になっていました。
元城町東照宮は、明治19年に、浜松城の城代や中泉奉行などを勤めた井上八郎によって創建されました。昭和20年の空襲により焼失してしまい、昭和34年に再建されたのが、現在の社殿です。(下写真)

元城東照宮の鳥居の脇に引間城についての解説板が設置してあり、引間城と浜松城の歴史が次のように概説してありました。(下写真が解説板)

「引間城本丸跡
鎌倉時代の浜松は、「ひきま(ひくま)」と呼ばれる町でした。現在の馬込(まごめ)川が天竜川の本流にあたり、西岸に町屋が発達しました。「船越」や「早馬(はやうま)」はこの頃の地名です。戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれます。歴代の城主には、尾張の斯波方の巨海氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏などがおり、斯波氏と今川氏の抗争の中で、戦略上の拠点となっていきました。この時代の浜松には、同じ今川方で、少年時代の豊臣秀吉が初めて仕えた松下加兵衞(頭陀寺城城主)がいました。松下氏に連れられて、秀吉は引間城を訪れています。徳川家康が最初に居城としたのもこの城です。元亀3年12月(1573)、武田信玄との三方ヶ原の戦いに、家康は「浜松から撤退するくらいなら武士をやめる」という強い覚悟で臨みましたが、引間城の北口にあたる「玄黙(玄目)口」へ撤退したと言われています。このころまで引間城が重要な拠点だったことがわかります。その後、城主となった豊臣系の堀尾吉晴以降、浜松城の増改築が進むにつれ、引間城は城の主要部から外れ、「古城」と呼ばれて米蔵などに使われていました。明治19年、旧幕臣・井上延陵が本丸跡に家康を祭神とする元城町東照宮を勧請し、境内となっています。」
引間城は、浜松城が築城されると、その一部に取り込まれました。そして、引間城があった跡は、浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブの江戸時代の絵図「遠州浜松城絵図」では、「古城 侍屋敷」と書かれていて、「安政元年浜松城絵図」では「古城 米蔵」と記載されています。
また、引間城の北側は、玄黙口と呼ばれていました。(下写真)

そして、「三方ヶ原の戦いの際に、家康は玄黙口から入城したと言われていて、その頃は重要な曲輪の一部であったと思われる」と説明板に書かれていました。

社殿の右手の広場には、徳川家康と豊臣秀吉の銅像が鎮座しています。

銅像の脇に説明板(下写真)には下記のように書かれていました。
「若き日の家康・秀吉二公と引間城
元城町東照宮の建つこの地は、浜松城の前身・引間城の本丸跡です。戦国時代のこの城には、後に天下人となる2人の武将が相次いで訪れています。天文20年(1551年)、尾張の農村を出た少年時代の豊臣秀吉公(当時16歳)が今川家臣の居城であった引間城を訪れ、頭陀寺の松下氏に仕えるきっかけを得たとされています。元亀元年(1570年)には、今川家から独立を果たした徳川家康公(当時29歳)が遠江を平定し、この城に住み、浜松という地名も定めました。この城は期せずして、2人の天下人が戦国武将としての一歩を踏み出した運命の地となりました。ここ引間城跡の東照宮と二公像は「出世の街 浜松」を代表するまさに聖地といえます。」

元城町東照宮を創建した井上八郎は本名清虎、号を延陵といい、千葉周作門下の剣術家でした。山岡鉄舟も井上八郎に剣の指導を受けた一人です。
井上八郎は、廃藩置県で静岡藩がなくなった後も浜松に残り、明治11年に浜松に設立された第二十八国立銀行頭取に就任していて、浜松との縁が深いものでした。そうしたことから、東照宮の創建を思い立ち、東京にいる勝海舟や山岡鉄舟の協力も得て、元城町東照宮を創建しています。
こうした井上八郎の功績を顕彰して「井上延陵君の碑」が元城町東照宮に建てられています。高さ3メートル、幅1.3メートルの大きな顕彰碑です。(下写真)


