松平康俊、甲斐を脱出する(「どうする家康」49)
「どうする家康」第16回では、三方ヶ原の戦い前夜の遠江・甲斐の情勢が描かれていました。
その中で、冒頭シーンで描かれていた松平康俊(「どうする家康」では源三郎と呼ばれていましたが、源三郎は通称です。)は、徳川家康の異父弟ですが、若くして亡くなったため、その名を知る人は少ないと思います。そこで、今日は、松平康俊について書いて行きます。松平康俊の子孫は、江戸時代中期の正徳年間に、下総国多胡藩の藩主となり、多胡藩主として明治維新を迎えました。そのため、松平康俊については『寛政重修諸家譜』に書かれていますので、それを参考に書いていきます。
松平康俊は久松俊勝と家康の母於大の間に生れました。そのため、徳川家康の異父弟ということになります。久松俊勝と於大との間には男の子供が3人いて、康元、康俊、定勝といいました。康俊は2番目の子供となります。
永禄3年(1560)、阿久比を訪ねた兄の家康と面会した際に松平姓を名乗ることを許されました。そして、永禄6年から今川氏真の人質となっていましたが、永禄11年に武田信玄が駿河に侵攻した際に、今川家の人質となっていた康俊は武田家に発見されました。この際、「武田信玄は大変喜び甲斐に送り厳しく警衛した」と『寛政重修諸家譜』に書かれています。こうして、甲府に送られたことにより、武田家の人質となりました。
甲斐での暮らしぶりについては『寛政重修諸家譜』に書かれていませんが、元亀元年(1570)に、甲斐国を脱走し三河に帰りました。「どうする家康」では服部半蔵が救出に向かっていましたが、『寛政重修諸家譜』には「東照宮の御謀事によりて」と書かれていますので、服部半蔵が救出したかどうかは不明にしても、忍びによる救出ということがあったかもしれません。
そして、脱出の途中の下山(山梨県巨摩郡身延町)で豪雪の山越えをした際に罹った凍傷により両足の指を失いました。家康は、帰国した康俊に対して、幼年時からの忠節を賞し、「一文字の刀」と「当麻の脇差」を与えました。
その後、天正11年(1583)には、駿河久能城主となっています。そして、天正14年4月3日死去しました。享年32歳でした。
松平康俊のお墓は、浜松市内の西来院にあります。西来院は、築山殿の菩提寺で、松平康俊のお墓は築山殿のお墓の脇にあります。
下写真は、今年の1月に浜松を訪ねた際に撮った写真です。


