家康、上杉謙信と同盟する(「どうする家康」50)
「どうする家康」第16回で、徳川家康と上杉謙信が同盟することが描かれていました。そこで、今日は、家康と謙信との同盟について書いてみます。
この同盟を申し出たのは、家康側だったと推測されています。家康が謙信に同盟を申し出たきっかけは、信玄に対して不信感を抱いたことと考えられています。
永禄11年(1568)12月に信玄と家康が同時に今川領へ侵攻した際に、当初の密約に反して信玄が家臣の秋山虎繁の部隊を遠江に侵攻させました。これに怒った家康が抗議したため、信玄は、秋山虎繁を駿府に引き揚げさせました。
家康は、このことにより信玄に対して強い不信感を抱いたと考えられています。このことがあって、永禄12年の正月早々には、信玄を牽制するため、信玄と長く争っている謙信との接近を図ろうとしたと思われます。
永禄12年1月前半には家康から謙信に使者が送られ、1月末か2月はじめに謙信の返信を持った使者が派遣されたようです。この後、家康と謙信との交渉が続けられ、翌元亀元年(1570)8月には、家康家臣の石川家成宛に謙信家臣の直江景綱から条書(じょうしょ)が出されました。景綱の条書に基づき、誓詞の交換が行われることになり、家康は10月8日付けで謙信宛起請文を出しました。それは2条からなるものでした。1条目では、信玄と必ず断交することを約束し、2条目で、信長と謙信の間が緊密になるように取り計らい、織田家と武田家の縁談が破談になるように信長に遠回しに諌めるようにすると書いてあります。
こうして、家康は信玄との盟約関係を破棄することとし、信玄を仮想敵とした攻守同盟が謙信との間で成立しました。
しかし、信玄にとっては、家康が謙信と同盟したことは許すことができないことでした。元亀3年(1572)10月21日付で、奥三河の山家三方衆の一人である奥平貞勝(道紋)にあてた書状のなかで、家康を攻めるのは「三ケ年の鬱憤を散じ候」と書いています。この三カ年の鬱憤というのは、元亀元年に家康が信玄との盟約を破棄し謙信と同盟したことを指していると考えられています。(平山優著「徳川家康と武田信玄」)
これを読むと、家康と謙信との同盟締結が、信玄が遠江に侵攻するきっかけの一つになったとは言えると思います。
なお、家康が謙信に届けた起請文の2条目の後半の原文を読み下すと「甲・尾縁談の儀も、事切れ候様に諷諫(ふうかん)せしむべく候事」となっていて、「風諫」という言葉が使われています。「諷諫」とは、辞書で引くと「遠回しにいさめること」と書いてあります。
「どうする家康」では、信長に一方的に可愛がられるカヨワイ男として家康が描かれていますが、この「諷諫」という言葉をみると、あれほどのことはありえないと感じました。
ところで、本日の記事では、上杉謙信と書きましたが、謙信は、元亀元年12月に出家して名乗った法号で、これが大変有名ですが、謙信は、名前を何回も変更しています。
上杉謙信は、長尾為景の四男として生まれ、元服後の最初の名前は「長尾景虎」といいました。そして、関東管領上杉憲政の養子となり上杉家の家督を譲られ上杉を名乗ることとなり、名前も「憲政」から一字を拝領し「上杉政虎」と名乗りました。さらに、後に室町幕府の13代将軍足利義輝より一字を拝領し「輝虎」と名乗りました。そして、出家して謙信と名乗りました。