武田信玄、山家三方衆を攻略する(「どうする家康」51)
「どうする家康」16回で、武田信玄が甲斐から三河までを描いた絵図面を眺めていると千代が近づき何かを信玄にささやきます。すると信玄が身体を重たそうにして長篠と書かれた木札をとり、千代が信玄を助けて作手と田峯と書かれた木札をとり、その後に、信玄が黒丸の木札を置いていく場面がありました。(下写真が絵図面に置かれた3つの黒丸木札)
ほんの数十秒のシーンでしたので、あまり注目されなかった方もいるかと思います。まだ明後日までNHKプラスで「信玄を怒らせるな」が配信されますし、明日は再放送がありますので、興味のある方は、それを見てご確認ください。放映開始から18分10秒から18分50秒までの40秒間の場面です。
この場面は、徳川方であった田峯城主菅沼氏・長篠城主菅沼氏・作手城主奥平氏が武田方に変わったということを表したものだと思います。田峯城主菅沼氏・長篠城主菅沼氏・作手城主奥平氏はまとめて山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と呼ばれます。そこで、今日は、この山家三方衆について書いてみます。
山家三方衆とは、奥三河の田峯城の菅沼氏、長篠城主菅沼氏、さらに作手(亀山)城主奥平氏の三家を指しますが、山家(やまが)というの辞書を引くと「山里、山村」と書いてあります。奥三河は三河国の北東部に広がる山間部をいいますので、そこに蟠踞する三家を山家三方衆と呼んだのでしょう。
田峯菅沼氏は、美濃国土岐氏の流れを汲むとされ、初代定直が東三河の山間部の作手(つくで)村菅沼(現在の新城市作手菅沼)を拠点としたことから、菅沼氏を称したとされています。定直には二人の子供があり、嫡男定成は、菅沼から田峯(だみね)城(現在の愛知県北設楽郡設楽町田峯)に拠点を移し、田峯菅沼氏と呼ばれ、奥三河の一大勢力となりました。また、次男満成は、当初荒尾(設楽町荒尾)を拠点としていましたが、その子元成が永正5年(1508)長篠城を築いて、そこを拠点としました。これが長篠菅沼氏です。
作手の奥平氏の発祥は上野国奥平(群馬県吉井町下奥平)であると言われています。8代貞俊の時に三河国作手に移って、応永31年(1424)に築いた亀山城(現在の新城市作手清岳字城山)を拠点として作手で勢力を拡張しました。
山家三方衆は、今川氏、徳川氏、武田氏の勢力圏の境目に位置していたため、今川家が三河に支配していた時には今川家に属していました。しかし、家康が遠江に侵攻した頃に家康に属し、そのまま家康が信玄と断交するまでは家康に属していました。しかし、断交を受けて、信玄は奥三河に侵攻しました。元亀2年(1571)3月、武田家の武将秋山虎繁が奥三河に侵攻し、田峯城の菅沼定忠、作手の奥平貞能を下し、さらに長篠城を攻め、菅沼正貞を降伏させました。
「どうする家康」で信玄が黒丸の木札に変えたのは、このことを表したものだと思います。
こうして、信玄は奥三河を押さえ、そこから三河岡崎城を狙う動きをみせた上で、遠江へ侵攻をすることになります。次回はいよいよ、「三方ヶ原合戦」です。山家三方衆は、この三方ヶ原合戦で、武田方の一員として家康と戦っています。また、家康にとって三方ヶ原合戦の次の大きな合戦が「長篠の戦い」ですが、山家三方衆の拠点の一つであった長篠城が主戦場の一つとなります。