浜松城(徳川家康ゆかりの地43《浜松➂》)
浜松では。5月5日に浜松まつりが開催され、松本潤が徳川家康の姿で参加し、大いに盛り上がったようですね。
そこで、今日は、今年の1月末に訪ねていて、まだブログで紹介していない浜松城について書いてみます。下写真は浜松城天守閣です。
浜松城は、天竜川の西側に広がる三方原台地の東縁にあたる段丘を利用した平山城です。下写真は、本丸南広場から写したものですが、天守閣が高台に築かれているのがよくわかります。
浜松城は天守曲輪が最も高く、その東に本丸、二の丸と西から東に向けて雛壇のように施設が配置されています。二の丸の北東部には家康が浜松城を築城する前にあった引間城(江戸時代には「古城」とされる)を取り込んでいて、その南側には三の丸が築かれていました。江戸時代に完成した最終的な浜松城の広さは、東西600m、南北700mもある広大なものだったようです。
現在の浜松城は、天守曲輪内に、昭和33 年(1958)に再建された鉄筋コンクリート造の復興天守閣と、平成26 年(2014)に再建された木造の天守門が建っています。また天守台を中心に野面積(のづらづみ)の石垣が残っています。
《天守閣》
江戸時代の浜松城の絵図面を見ると天守が描かれていないため、天守は江戸時代の早い時期になくなったと考えられています。下写真は現在の天守閣ですが、昭和33年に再建されたもので、館内は資料館となっています。
《天守門》
天守門は天守曲輪の大手につくられた門で、安土桃山時代(16世紀末)に建てられた門で、明治6年に取り壊されました。現在の天守門は、平成26年に復元されたものです。
《石垣》
天正18年(1590)、北条氏が滅ぶと、家康は豊臣秀吉の命により関東に移封されます。その後の浜松城主となったのが、秀吉の家臣の掘尾吉晴です。堀尾吉晴高石垣や天守がある豪壮な城郭に造り変えました。現在、浜松城に残る石垣は、吉晴が在城した時に築かれたものと考えられています。下写真は平成26年の発掘調査で発見された石垣です。
この石積みの近くに説明板が設置されていて、発見された石垣は天守台と同じような自然石を利用した野面積(のずらずみ)で、石を横長に配置した布積みと呼ばれる技法で築かれたものであることが解説されています。
《家康時代の浜松城》
家康が在城していた当時の浜松城は現在の浜松城の姿とは大いにことなり、石垣のない土づくりのお城だったようです。また、天守もなかったようです。こうしたことを解説した説明板がありました。(下写真)
《家康公鎧掛松》
本丸南広場には「家康公鎧掛松」があります。家康が、三方ヶ原の戦いで敗れ、浜松城に逃げ帰った時に、家康が鎧を脱いでこの松に掛けたという伝説がある松です。現在の松は3代目です。
《若き日の徳川家康公の銅像》
本丸に「若き日の徳川港の銅像」と名づけられて銅像が建っています。昭和56年に建てられたものです。私には、若者姿に見えませんでしたが、当時では、この風貌でも若者の風貌だったのかもしれません。家康が手にしているのは「羊歯(しだ)」で、勝利につながる縁起の良い「勝草」とも呼ばれました。家康が関ケ原の戦いで着用したとされ久能山東照宮博物館に伝わりる「歯朶(しだ)具足」は、国の重要文化財に指定されていますし、「どうする家康」でもタイトルに描かれています。
《大河ドラマ館》
下写真は大河ドラマ館ですが、大河ドラマ館は浜松城の二の丸跡に建てられています。