武田信玄、遠江に侵攻する(「どうする家康」52)
「どうする家康」第17回では、三方ヶ原合戦について描かれました。信玄の侵攻開始から家康の出陣、そして、合戦での徳川方の敗北まで描かれましたが、合戦の最中の動きについては次回詳しく描かれる模様です。従って、合戦の様子は、次回の放映を見た上で書くとして、家康の出陣までについて数回に分けて詳しく書いていきます。まず今日は、武田信玄の侵攻ルートについて書いてみます。
武田信玄は、元亀3年(1572)秋、徳川領国へ侵攻を開始しました。この侵攻にあたって、信玄は軍勢を本隊と別動隊の2つに分け、山県昌景が率いる別動隊を信濃に向かわせ、本隊は武田信玄自らが指揮し10月3日、遠江を目指し甲府より出陣し、10月10日には遠江に侵攻しました。
この信玄が率いる本隊の侵攻ルートについては、従来は、信玄率いる本隊も別働隊と同じように信濃に向かい、信濃から遠江に南下して侵攻したという説が通説とされていました。しかし、最近は、信玄本隊は駿河から遠江に西進して侵攻したとする説が本多隆成氏や柴裕之氏によって主張され、従来の説は否定されつつあります。平山優氏の『徳川家康と武田信玄』によれば「もはや本多説は動かない」ようです。
《従来の説》を詳しく説明すると、武田信玄率いる本隊は10月3日、甲府を出陣し、山県隊と同じく、信濃に向かった後、信遠国境の青崩峠を越えて遠江に侵攻し、南進して二俣城へ向かったとしていました。
しかし、《最近の説》では、武田信玄率いる本隊は10月3日、甲府より出陣し、信濃に向かわずに、駿河に進出し、駿河から遠江の海沿いに進み、高天神城を落とし、さらに見付城など近隣の城を攻め、二俣城に向かったとします。
この説について本多隆成氏は『徳川家康と武田氏』の中で詳しく説明しています。
昨日のどうする家康では、高天神城の降伏を報告される場面が描かれていましたので、最近の説に基づいて描かれていたと思います。
一方、《従来の説》では、別動隊のうち一つは山県昌景は本隊の出陣より早く9月29日に出陣し、信濃を経て東三河に侵攻し、長篠城を攻略した後、遠江に侵攻し、秋山虎繁が率いるもう一つの別働隊は東美濃に侵攻し岩村城を攻略したとされていました。こうした《従来の通説》に対して、〈最近の説》では、秋山虎繁は山県昌景と一緒に行動していて、東美濃の岩村城に向かっていないという説が主張されています。『徳川家康と武田氏』(本多隆成著)によれば、山県昌景と秋山虎繁は、青崩峠(または兵越峠)を越えて遠江に入り、浦川(現在の浜松市天竜区佐久間町浦川)を経て三河に入り、野田城を攻めた後、伊平(いだいら 現在の浜松市北区引佐町伊平)を越えて二股城に向かい信玄本隊と合流したとしています。
こうした研究の成果は、現地の説明板にも影響を及ぼしているように思います。上写真は、浜松市の三方原墓園にある「三方ヶ原古戦場」の説明板ですが、そこに書かかれている武田本隊の侵攻ルートについて、《従来の通説》による信濃からの南下する侵攻ルートは別説とされています。(下拡大写真参照)