信玄出陣のねらい(「どうする家康」53)
今まで、三方ヶ原合戦は、武田信玄が上洛する途中で起きた戦いと言われていたように思います。現在でも、多くの書物で三方ヶ原の戦いがこの立場で説明していると言われています。そのため、元亀3年(1572)10月3日に信玄が出陣したのは、上洛するためだったと考えている人が多いのではないかと思います。かくいう私もその一人でした。信玄は、上洛する途中の三方ヶ原合戦で、それに抵抗した家康を完膚なきまでに撃破したものと思っていました。
しかし、『定本徳川家康』(本多隆成著)を読むと、この時の信玄の出陣は上洛をめざしたものではなく局地戦だったとする説がかなり主張されていることが書かれています。そこで、今日は『定本徳川家康』を参考に、元亀3年の信玄出陣の狙いに関して諸説があることについて書いてみます。
『定本徳川家康』によれば、元亀3年の信玄の出陣の狙いについては、上洛戦か局地戦かに分かれるといいます。さらに局地戦については、織田信長の討滅や美濃の攻略が目的だったとする説とあくまでも遠江や三河など徳川家康の領国を制圧することにあったとする説があり、結果として〈⑴上洛説〉、〈⑵信長討滅と美濃攻略説〉、〈⑶徳川領国制圧説〉の三つがあると言います。
〈⑴上洛説〉は戦前からの有力な説として支持され、近年でも、小和田哲男氏も支持しており、平山優氏も「概説書」の中でこの説を主張しているといいます。
この説の根拠は、越前朝倉氏、近江浅井氏、大和松永氏、大坂本願寺が、将軍足利義昭を盟主として、反信長包囲網を形成し、信玄も上洛の意思を示していて、それを示す元亀2年・元亀3年に比定された二つの史料があることなどが挙げられているそうです。
しかし、本多隆成氏は、足利義昭が反信長の姿勢を明確にするのは、元亀4年2月のことであり、これまで元亀2年・3年に比定された上記の史料は、鴨川達夫氏によって、ともに元亀4年であることが明らかにされたため、元亀3年の段階で信長包囲網が形成されてはおらず、信玄が上洛の意思表示をしていたといわれてきたことも根拠を失うことになり、「上洛説はもはや成り立たなくなった」と書いています。
それでは局地戦と主張する説ですが、局地戦説のうち〈⑵信長討滅と美濃攻略説〉は、本多隆成氏のほか、鴨川達夫氏などが主張しています。そして、〈⑶徳川領国制圧説〉は、高柳光壽氏や柴裕之氏などが主張しているようです。
本多隆成氏は、織田信長との対決が主目的であったとする説つまり〈⑵信長討滅と美濃攻略説〉の方が正しいのではないかと主張しています。本多氏は、徳川領国制圧説の問題点は、三方ヶ原合戦に続いて浜松城を攻略しなかったことにあり、家康を討ち取ることが可能であったのにもかかわらず先に急いだのは、三河から美濃方面に進軍し、信長との対決を予定したためであるとしています。
そして、〈⑵信長討滅と美濃攻略説〉を支持する根拠として①信玄は、信長との対決を考えて、美濃・飛騨地方方面の制圧調略を進めていたこと、②遠州に侵攻した後も信玄自身が信長との対決を繰り返し強調していることを挙げています。
『定本徳川家康』ではp92~p98に詳しく書かれていますが、従来、上洛説が当たり前と思われていた信玄の元亀3年の出陣についても近年はいろいろな主張・見解があるものだと改めて感じました。これからは、局地戦説を主張している研究者の人たちの著作も読んでみたいと思いました。