信玄の遠江侵攻は甲相同盟復活の結果(「どうする家康」54)
武田信玄は、元亀3年(1572)に遠江に侵攻する理由を、山家三方衆の一人奥平貞勝(道紋)に送った書状の中で「3年間の鬱憤を晴らすため」と書いています。その三年間の鬱憤のきっかけとなったのは元亀元年(1570)に徳川家康が上杉謙信と同盟したことでした。
それでは、なぜ武田信玄は、家康が謙信と同盟するとの情報を入手した元亀元年に遠江に侵攻しなかったのでしょうか?また元亀3年に遠江に侵攻するようになった背景には何があったのでしょうか?この疑問の答えは、北条氏との関係だと思われます。そこで、今日は武田信玄と北条氏政の同盟(甲相同盟)について書いてみます。
元亀2年(1571)10月3日、北条氏康が死去しました。すると北条氏政はすぐに武田信玄盟との同盟の復活を目指しました。永禄11年(1568)に信玄が今川領に侵攻した際、激怒した氏康は甲相同盟を破棄し、信玄と敵対関係となりました。それ以降、武田氏と北条氏は敵対関係を続け、永禄12年(1569)には信玄により小田原城が包囲される事態にまでなりました。その後も、元亀元年(1570)から2年半ばまで信玄はたびたび駿河東部の北条領を攻撃し続けました。その結果、駿河東部の大部分は信玄の支配下にはいり、わずかに興国寺城などだけが北条方として残るだけでした。こうした信玄との抗争激化を受けて氏康は、長年敵対してきた上杉謙信と同盟を結ぶ決断をし、元亀元年(1570)3月に越相同盟が結ばれました。これにより、「『上州一国、武州所々岩付まで』が上杉領国ということになった。」といいます(『群馬県の歴史』より)。しかし、越相同盟により信玄の背後をつくことを期待されていた上杉謙信の対応は北条氏側から見ると不十分なものでした。そのため、氏政は一向に武田攻めに加担しない謙信に嫌気がさしていたといいます。そこで、信玄との抗争を主導していた氏康が亡くなったのを機として、越相同盟を破棄し甲相同盟を復活させようと動きだしたのでした。氏政が信玄との同盟復活に動いたのは、氏政の元の正室が信玄の娘の黄梅院だったという事情もあると思います。もっとも、越相同盟の破棄は氏康生前からの既定路線だったとの説(黒田基樹著『北条氏康の妻瑞渓院』)もあります。
氏政は、元亀2年12月27日、甲相同盟復活と上杉氏との手切れを宣言しました。そして、上野国の北条方に対し、上杉方と敵対するよう指示しました。
これより前、謙信は、厩橋(現在の前橋市)在城の北条(きたじょう)高広を通じて、信玄に和睦を打診していました。これに対して、武田側は、12月17日、上杉方に甲相同盟復活を伝え、もし上杉と和睦するのであれば、氏政も加えた三和(武田・上杉・北条の三国同盟)以外には受け付けないと返答したといいます。これにより、謙信も甲相同盟復活を知ることになりました。こうして、上州方面での、北条氏と上杉氏との抗争が激化することになりました。
甲相同盟の復活は、信玄にとっては、大きな成果でしたこれによって、信玄は、北条氏との敵対関係が終了するとともに上杉氏から攻撃される恐れが格段に少なくなります。関東を顧慮せずに西に目を向けることができるようになったわけです。こうして、信玄は、遠江、三河、東美濃への侵攻を企てるようになりました。
ちなみに、家康が織田信長からの要請を受けて永禄13年(元亀元年)に上洛したり越前攻めや姉川合戦に加勢していた時期、前述のように信玄は北条氏と激戦を繰り広げていたため徳川領国に侵攻する余裕はまったくありませんでした。ですから、家康も信長の応援に出向くことができたのでした。(※なお、元亀元年、2年に信玄が遠江を侵攻したという説もあるようですが、本多隆成先生は、この侵攻を否定しています(『徳川家康と武田氏』p97)。ここでは、本多隆成先生の説に従って、元亀元年・2年の遠江侵攻はなかったという前提で書いています。)
甲相同盟復活によって、大きな影響を受けた人物が今川氏真です。今川氏真は、駿河奪回を念願して、北条氏の庇護のもとにありました。しかし、甲相同盟復活により、武田氏と北条氏との取り決めにより駿河国は武田領と定まったため、北条氏にいては、駿河奪回を実現することは困難となりました。そこで、氏真は北条氏を去ることになります。氏真が北条氏を去ることについては、信玄から北条氏に対して氏真を追放するよう要請があったともいいます。こうして氏真は、正室早川殿とともに浜松に向かい、家康の庇護を受けることになりました。