家康、三方ヶ原に出撃(「どうする家康」55)
元亀3年(1572)10月に遠江に侵攻した武田信玄は、またたくまに高天神城・見付城を落とし、一言坂の戦いで本多忠勝隊を浜松城に追いやり、11月中旬から二俣城を包囲し月末に開城させたのち、約20日間二俣城に在城し、12月21日に改めて動き出しました。
天竜川を越えた武田軍はそのまま浜松城を攻めるものと思われたが、浜松城に向かわず、欠下(かけした:現在の浜松市東区有玉西町)で三方ヶ原台地に上ったといわれています。「どうする家康」では、武田軍は、浜松城から眺められる地点まで迫ってきて急に方向を変えたように描かれていましたが、欠下と浜松城との距離は5キロほどあありますので、武田軍の動きを浜松城から直接見ることは困難だったと思います。
信玄が浜松に向かってくものとばかり思っていた家康は、信玄が三方ヶ原に向かったため、どうするか苦慮することになりました。信長の援兵三千を率いる佐久間信盛・水野信元。平手汎秀(ひろひで)は籠城策を唱えましたが、家康は、籠城策を退け、援兵を合わせた1万1千の兵で城を出て武田軍にあたることを決め、信玄を追撃しました。
「どうする家康」では、松本潤演じる家康が、出撃に際して家臣及び織田援軍諸将に向かって「我が屋敷の戸を踏み破って通られてそのままにしておくものがあろうか?戦の勝ち負けは多勢無勢で決まるものではない。天が決めるんじゃ」と語っていました。このセリフは、『三河物語』に書かれている通りです。『三河物語』には「多勢で我が屋敷の裏口を踏み破って通ろうとするのに、中にいながら出て咎めない者があろうか。負けるとしても出て咎めるであろう。そのように我が国を踏み破って通るのに多勢だからと言ってなぜ出て咎めないというのか。とにかく合戦をせずしてはおけないだろう。戦は多勢無勢によらず、天道次第である。」と言って、家康は全軍に出撃を命じたと書いてあります。
多勢に無勢かつ老練な信玄に対してなぜ家康が戦いを挑んだことは謎です。そのため、家康が出撃した理由についてはいろいろな理由が挙げられています。本多隆成氏は「定本徳川家康」で次の三点を挙げています。
①信長との同盟関係があったり、信長から加勢の衆を送られながら、一戦も交えずに武田軍をやり過ごすというようなことはできなかった。
②これまで家康に服属していた遠江・三河の将士が、次々に武田方に降っていくという状況があり、彼らをつなぎ止めるためには、かなわぬまでも一戦に及び、存在感を示すことが必要と考えた。
➂地理的な優位性を活かし、武田軍を追撃し、一撃を与えて浜松城に退くというような作戦であれば、一定の勝算はあると考えたのではないか。
一撃を与える作戦について本多隆成先生は具体的な作戦を述べていませんが、「どうする家康」でも挙げられていた「信玄が三河に向かって北上すれば祝田(ほうだ)から下り坂になり、小勢(こぜい)をもって攻める家康は高所に位置することになり有利に戦いを行うことが出来ると考えた。」とするものもあります。
本多隆成先生が述べた理由のほか、平山優先生は、浜名湖水運を遮断されることを阻止するため出陣したという見解を『新説家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く』の中で発表しています。