「一言坂の戦い」と二俣城の攻防戦(「どうする家康」56)
武田信玄が、元亀3年に遠江に侵攻した際の「一言坂の戦い」と二俣城の戦いについては、かなり有名な戦いです。「どうする家康」第17回では、本多忠勝と本多忠真が武田軍と遭遇し戦う場面とその後城に戻る場面がありましたが、これが「一言坂の戦い」に触れたものだと思われます。また、二俣城の戦いについてはまったく触れていませんでした。そこで、今日は「どうする家康」ではあまり描かれていなかった「一言坂の戦い」と二俣城の攻防戦について少し触れてみたいと思います。
徳川家康は、浜松方面に向かってくる武田軍の動きを探ろうと、本多忠勝と内藤信成に一隊を預けて、天竜川を越えて偵察に向かわせ、家康自身も兵を率いて、2人の後を追ったといいます。
本多忠勝、内藤信成は、偵察の途中で武田軍と遭遇しました。2人はすぐに家康を逃がし、本多忠勝は殿軍として後ろを用心しつつ退却したものの、武田軍に一言坂(磐田市一言)で追いつかれてしまいました。ここで本多忠勝は大いに奮戦し、家康を無事浜松城に帰還させるとともに偵察部隊も無事浜松城に戻ることができました。
「一言坂の戦い」での本多忠勝の獅子奮迅の働きは相当見事なものだったようで、戦いの後、武田方から「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭(からのかしら)に本多平八」という狂歌・落書が詠(よ)まれたといいます。
ここに詠まれている「本多平八」とは本多忠勝のことであり、「唐の頭(からのかしら)」とはヤクの毛で作られた飾りをつけた兜のことです。(※ヤクはチベットからヒマラヤ山脈にかけての高地にすんでいることから「唐」と呼ばれた。)
家康が持っている他家に勝る優れた二つのもの(者・物)を詠んだ歌で、本多忠勝の武功を称えるエピソードとして大変有名です。
一言坂の戦いで家康や本多忠勝らを浜松城に追い返した信玄は、天竜川を渡った後、直接浜松城に向かわず、向きを北に変えて二俣城の攻撃に向かいました。
二俣城のある二俣は、信濃から遠江への街道の要衝で、真っすぐ南に行けば浜松に着き、東に向かえば掛川に通じていました二俣城は、西側を天竜川が流れ、東を二俣川が流れ、南で二つの川が合流するという要害の地にあり、二俣城は、中根正照や青木貞治らが守っていました。信玄は山県昌景や馬場信春の進言に基づき、力攻めをせず、水の手を切る戦術を取りました。水の手を切られた二俣城側は、井戸櫓を利用して天竜川の水をくみ上げていましたが、武田方は上流から筏を流して井戸櫓を破壊しました。城方は、水の手を完全に切られて、やむなく開城し、城を守っていた中根正照は浜松城に退去しました。
この間のことを『三河物語』は次のように書いています。
城は西は天竜川、東は小川有り、水の手は岩にて、岸高き崖づくりにして、車をかけて水を汲む、天竜川のおし付なれば、水もことすさまじき体なるに、大綱をもって筏をくみて、上よりも流しかけかけ、何程共きわもなく重ねて(※何度も何度も際限なく繰り返して)、水の手をとる釣瓶縄(つるべなわ)を切ほどに、ならずして(※堪えられず)城を渡す。
信玄は、力攻めをしなかったため、開城までに20日ほど要し、11月末にようやく二俣城は降伏し開城しました。なお『徳川家康と武田氏』(本多隆成著)によれば、二俣城の開城は、従来の通説は12月19日とされていたが、これは誤りで、11月朔日とする史料があるので、開城は「11月晦日であったことが確認される。」ようです。
下写真は、二俣城の近くの清瀧寺(せいりゅうじ)に復元された「井戸櫓」です。