二俣城(徳川家康ゆかりの地44《浜松④》)
昨日、二俣城の攻防戦について書きましたが、二俣城は、今年(2023年)1月末に訪ねましたので、今日は二俣城を紹介します。下写真は、二俣城本丸跡に残されている天守台です。
二俣城は、現在の浜松市天竜区二俣町二俣にあります。二俣は天竜川と秋葉街道を通じて信濃や遠江北部と浜松や遠州灘を結ぶ交通の要衝であるとともに、東に向かえば掛川に通じ、西に向かえば三河に通じる三河と遠江東部とを結ぶ交通の要衝でもありました。
二俣城は、西側を天竜川が流れていました。東側は二俣川が流れ、二俣川は二俣城の南で天竜川に合流していました。こうした三方を川で囲まれた天然の要害の地に二俣城は築城されました。
二俣城の築城時期ははっきりしませんが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで戦死した今井宗信は二俣城主であったとされています。桶狭間の戦い以後、徳川家康は、武田信玄と今川氏の領国に侵攻する盟約を結んだうえ、遠江に侵攻しました。その際、二俣城を守っていたのは、上之郷城の鵜殿長照の息子鵜殿氏長だったとされています。鵜殿氏長は二俣城を開城し家康の影響下に入り、鵜殿氏長らに二俣城の防備をそのまま命じました。その後、元亀3年(1572)の武田信玄が遠江に進攻した際には中根正照らが二俣城を守っていましたが、武田軍に包囲され、やむなく開城しています。二俣城の大規模な堀はこのころ設けられたものと考えられているようです。その後、天正3年(1575)武田氏から家康が二俣城を奪い返し大久保忠世が城主となり遠江北部の防備にあたりました。大久保忠世が城主であった天正7年(1579)には、家康の嫡男松平信康が二俣城に幽閉されかつ切腹するという事件が起きています。天正18年(1590)、家康が関東に移った後は、豊臣秀吉家臣の堀尾吉晴が浜松城に入り、二俣城には堀尾吉晴の弟の宗光(氏光)が入ったと考えられています。
二俣城は、浜松市教育委員会の発掘がしばしば実施されています。その発掘調査報告書によれば、二俣城は、北から南に延びる自然丘陵の先端を利用して築城されていて、南北300メートル、東西200メートルの中に主な城郭遺構が確認でき、本丸は標高82メートル、丘陵の高さは城の東側で43メートルあるようです。そして、二俣城には北の丸、本丸、二の丸、南の丸Ⅰ・Ⅱの5つの曲輪と本丸の西側に続く3つの曲輪(西の丸Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)があったようです。
私は浜松からレンタカーを借りて三方ヶ原を見た後、二俣城を訪ねました。二俣城の本丸の北側に小さな駐車場があり、そこからは本丸は近かったです。下写真の右手が駐車場ですが道路脇に数台駐車できるスペースがあります。正面の左に行くと本丸です。
本丸は公園になっていて、本丸は、南北55メートル、東西50メートルあるそうです。下写真は天守台が眺めた本丸です。
本丸西側に天守台が残されています。下写真が天守台です。天守台は、野面積の石垣で、底の部分の南北は15.5メートル、東西14.5メートルあり、高さは4.2メートルあります。
本丸の東側には土塁も残されています。天守台や石垣は、天正18年(1590)から慶長5年(1600)の間に城主であった堀尾氏によって築かれたものと推定されています。
二俣城の西側には天竜川が流れています。本丸からは木の間越しに天竜川が見えます。下写真は天守台から見た天竜川です。木の間越し見えました。