三方ヶ原合戦開戦と夏目広次の討死(「どうする家康」57)
昨日の「どうする家康」第18回では、夏目広次(吉信)の身代わり討死を中心に三方ヶ原合戦が丁寧に描かれていました。
三方原台地は南北15キロ、東西10キロもあると言われている広大な台地で、三方ヶ原合戦が行われた当時は原野だったと考えられています。これだけ広い原野での戦いであったためでしょうか。実は三方ヶ原合戦はどこで行われたか特定されていません。「三方原古戦場」の石碑(下写真)が三方原墓園入口にありますが、石碑が建っている場所で三方ヶ原合戦が行われたという訳でもないようです。
このように合戦がどこで行われたかはっきりしない状況ですが、合戦の様子が『三河物語』に書かれています。それを要略すると概ね次のようです。
⑴武田信玄は魚鱗に構え、徳川家康は鶴翼に構えた。
「魚鱗」「鶴翼」とは、陣形の種類で、魚鱗は、魚の鱗のように中央が突出した陣形で、鶴翼は鶴が翼を広げたように左右に広がった陣形です。「魚鱗」は少ない軍勢で多くの敵と戦う場合に採用されることが多く、「鶴翼」は多くの軍勢が敵を包み込むようにして戦う場合に採用されることが多い陣形です。家康は少ない軍勢にもかかわらず鶴翼の陣形を採用したといいます。大久保彦左衛門は『三河物語』の中で「手薄くみえたり」と書いていますが、少数で鶴翼の陣形を採ったのですから、この感想は妥当な感想なのでしょう。
⑵信玄は「つぶて」を打たせて合戦を始めた。
「つぶて」とは投石用の小石のことですが、戦国時代は、「つぶて」も立派な武器だったようで、武田軍には「投石部隊」もあったようです。新田次郎の「武田信玄」によれば、これにより徳川方が挑発されたといいます。
⑶徳川軍は、それにもかかわらず鎧を傾けて斬りかかり信玄の旗本陣まで斬りつけ、すぐに一陣、二陣を切り崩した。
⑷しかし、信玄の旗本が真っ黒となって鬨(とき)の声を上げて攻めかかってくると徳川軍は信玄の旗本に攻め返され、徳川軍は敗勢となった。
⑸家康は、こうした状況にも動転することなく小姓たちを討たせまいとして馬を乗り回し真ん丸となって退却した。
『三河物語』には、このように書かれていて、多勢の武田軍に向かって徳川軍は勇猛果敢に攻撃しかけ、当初は徳川軍が武田軍を切り崩すことができたようです。「どうする家康」では、信玄が待ち構えているのを見て家康は戦わずしてすぐに退却を命じたように描かれていましたが、そんなことはありえなかったようです。しかし、開戦後まもなく武田軍の反撃が始り、徳川軍は敗勢が濃くなり大敗し、家康も命からがら浜松城に帰還しています。こうした大敗の中で、家康を守って多くの将士が討死しています。その中の一人が夏目広次(吉信)です。
「どうする家康」の三方ヶ原合戦の中で中心的に描かれていたのが、夏目広次(吉信)の身代わり討死です。「どうする家康」はあくまでもドラマですが、夏目広次(吉信)が家康の身代わりとなって討死したのは史実です。『寛政重修諸家譜』には、三方ヶ原合戦での夏目広次(吉信)の討死が詳細に書かれています。なお、『寛政重修諸家譜』での実名は吉信と表記されています。広次という名前は『寛政重修諸家譜』からはわかりません。しかし、「どうする家康」で夏目広次となっているので、ここでは夏目広次(吉信)と表記しています。
『寛政重修諸家譜』によると、夏目広次(吉信)は、浜松城の留守居を命じられましたが、徳川軍の敗勢が濃くなると直ちに戦場に向かい、家康に早く浜松城に撤退するよう進言しました。しかし、家康は、退却を拒否し、敵に向かおうとしました。そこで、夏目広次(吉信)は、強く諫めるとともに、敵が来ればここに踏みとどまって殿の代わりに討死すると言いながら、馬の首を浜松城に向けて鞭うって走らせ、そして自らは踏みとどまり敵と渡りあい討死したようです。
「どうする家康」のように鎧の着替えまでしなかったものの、「我こそは家康なり」ぐらいは叫んで敵をひきよせて、家康の戦場離脱を助けたと思います。
『寛政重修諸家譜』は、古文ですので少し読みにくいとは思いますが、その時の様子がリアルに描かれていますので、下記に引用しておきます。読みやすいように一部修正してありますが、それでもまだ読みにくいとは思いますので、ご容赦ください。
元亀3年12月22三方ヶ原合戦のとき、吉信浜松城の御留守にあり、合戦の期にいたりて櫓にのぼり、其形勢をうかがうに、御味方利あらずしてあやうかりしかば、ただちに戦場におもむき、東照宮に言上しけるは、「敵兵をみるにもっとも多くかつ重みて軍勢競いすすむ。御味方は足並み悪し。早く浜松に入御ありて時を待たまむにはしかじ」という。この時(家康が)仰せありけるは、「いま城下の合戦に、勝負を決せずして退かば、敵いよいよ力を得て逃るること難(かた)かるべし。かるにおいては退くとも何の益があらむ。ただ敵軍に馳せ入りて討死にすべし」と。既に御馬を進められ、鎧をもって御馬取(※馬丁のこと)を蹴させ給う。吉信馬より飛びおり、御馬の轡(くつわ)にとりつき、「君御身を全うさせ給う事もあるべし」と言上す。重ねて仰せありけるは、「たとえ退くというとも、敵兵追い来たらば逃れ難からむ、いさぎよく討死せんにはしかじ」と宣(のたま)う。吉信また諫め奉りていわく、「敵もし御あとをしたはば、某(それがし)此所に踏みとどまって防戦し、君に代わり奉り討死をとぐべし。しからば危急をのがれ給うべし」といいつつ、御馬を浜松の方に引き向け、刀のむねにて三頭を鞭打ち、疾(と)く走らしむ。敵兵これをみて大軍を率いて追う事、急なり。時に吉信与力僅かに25・6騎を従え、敵中に駆け入りて高声に御名を称し、十文字の鎗をもって力戦し、敵兵二人を突きころし、終に討死す。年五十五」
夏目広次(吉信)の顕彰碑は、浜松城近くの犀ヶ崖古戦場近くの姫街道脇に建立されています。(下写真)史跡名は「夏目次郎左衛門吉信の碑」となっています。
下地図中央が「三方原古戦場」の石碑の設置場所です。
下地図の中央が夏目広次(吉信)の顕彰碑建立地です。
《2023年5月16日追記》
新田次郎は三方ヶ原合戦について『武田信玄』の中で次のように書いています。
「三方ヶ原の合戦については諸種の文献があるが、どれも記述は比較的簡単であるし、内容もそれぞれ違っている。武田方の文献というと『甲陽軍鑑』である。山本勘助の子が書いた原本にはどう書いてあったか分らないが、小幡景憲がこれに手を加えて世に出したのは既に徳川時代に入ってからであるし、彼は五百石の俸禄を受けているたてまえ上、徳川家に不利なようなことは書けない。(中略)
徳川方の文献、『松平記』『御在城記』『本多家武功書』『当代記』『三河物語』等も、記述がまちまちであるし、多くはずっと後になって書かれたものである。また自家の先祖をことさら誇張して書かれたものもある。だが、なんと云っても、三方ヶ原の合戦は徳川方の大敗北に終ったことは隠すことのできない事実であるのでこの点だけは認めている。しかし、その詳細については書かれていない。敗軍の将、兵を語らずの類かもしれない。徳川方の資料のうち『当代記』と『三河物語』が、比較的に価値高いものとされているが、その『三河物語』の中の三方ヶ原合戦の記述も活字本にして二頁そこそこである。 短か過ぎる。三方ヶ原の合戦はどのように戦われたのか殆ど分っていないというところがほんとうであろう。