「空城の計」と「酒井の太鼓」(「どうする家康」58)
「どうする家康」で、酒井忠次と石川数正が城門を開放し篝火(かがりび)をどんどん炊かせる場面がありました。これが、有名な「空城の計(くうじょうのけい)」です。今日は、この「空城の計」について書いてみます。
三方ヶ原で大敗北を喫した家康は浜松城に逃げ帰り、城門を開けたままにして篝火(かがりび)を焚かせたと言います。そして、家康を追撃してきた山県昌景と馬場信春は、城門が開け放されていて篝火が昼間のごとく焚かれ、城中は静まりかえっているのは何か策略があるのではないかと思って引き返したと言われています。
家康が取ったこのような自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘う計略を「空城の計」といいます。「空城の計」は三国志の中に書かれている諸葛孔明が採った策略です。諸葛孔明は、敵が攻め寄せて来た時、四面の城門を開き、城楼に上って酒を酌み、静かに琴をかき鳴らしていました。敵は伏兵あるとみて退却していったといいます。
家康は、浜松城に逃げ込んだ際に、この「空城の計」を利用したとよく言われていますが、この話は「甲陽軍鑑」にも「三河物語」にも記されていません。
この話は江戸時代後期に編集された『四戦紀聞』という書物に書かれているとのことでしたので『四戦紀聞』を探してみました。『四戦紀聞』に次のように書かれていました。(原文はカタカナ書きですが、読みやすいように一部修正しています。)
「甲陽(※武田軍の意味)の先鋒山県馬場が両勢、玄黙口まで押詰め見ければ、城門は広々と開け、内外に篝火(かがりび)を焚けり。山県昌景・馬場氏勝(※馬場信春のこと)に謂(いい)て曰(いわ)く、『敵軍急に敗走して門の扉をたつるに暇なしと見えたり速やかに乗入り城郭を抜くべきなり』 馬場答えて曰く『敵、今日、利を失い急に城中へ退き入りうえは門を閉める。暇あらば橋をも引いて要害を便とし防御すべきなるに、今、城門を開き篝火を焚けるは、もしかねて相謀りて味方を郭内へ引入れ撃殺すべき為ならんか。徳川殿は当時の英雄なれば卒爾(そつじ)の働き無益なり。しばらく鍳(かんが)みて乗入るべし』と猶予(ゆうよ)しける(後略)」
山県昌景と馬場信春が追撃してきたものの城門が開け放されているのをみて、山県昌景が押し入ろうとしたところ、馬場信春がそれを留めたと書いてあります。
この「空城の計」について、小和田哲男先生は『三方ヶ原の戦い』のなかで、浜松城の城門の開け放ちが定説化していくのは家康の神格化に関係があり、モデルとなったのが「三国志」の「空城の計」ではないかと考えている。」と書いているようです。それに従えば、「空城の計」は史実でなく、家康神格化の中で創作されたエピソードであるということになりそうです。
また、この「空城の計」を題材とした歌舞伎に「酒井の太鼓」という演目があります。この話は、河竹黙阿弥が『太鼓音知勇三略(たいこのおとちゆうさんりゃく)』として書き上げ、明治6年3月に村山座で初演されたものです。
この歌舞伎の内容は次のようなものです。
「徳川家康が三方ヶ原の戦いに敗れて、浜松城へ逃げ帰ってきた後、武田方は勢いよく城門の近くまで追ってきた。このとき家康は、後から逃げ帰って来る者のために、城門を開いたままにして、城門の外へ、巨大な篝火(かがりび)を焚かせた。武田方はこの大きな篝火を見て、何か策略でもあるのではないかと城の近くで様子を見ていた。すると城の中を守っていた酒井左衛門尉忠次が、突然、太鼓を高々と打ち鳴らし始めた。驚いた武田方は、きっと何かあるにちがいないと思い、急いで浜松城から離れていき、徳川家康は、かろうじて城を守ることができたという。」
城門を開け放すところまでは「四戦紀聞」の話ですが、その上で酒井忠次が太鼓を打ち鳴らすことが追加されています。ここから演目が「酒井の太鼓」と言われる由縁だと思います。
「どうする家康」で酒井忠次が太鼓まで打つのではないかと思っていましたが、さすが、そこまでの演出はなかったですね。
岡崎市内の「中央緑道」には徳川四天王の石像が設置されています。その中で酒井忠次は太鼓を打つ姿の像です。つまり「酒井の太鼓」をモデルとした石像です。(下写真)