徳川軍、犀ヶ崖で武田軍を夜襲(「どうする家康」59)
「どうする家康」では描かれていませんでしたが、三方ヶ原の戦いで敗北した家康は、どうにか一矢を報いようと、その夜、犀ヶ崖近くで野営する武田軍を急襲しました。これが「犀ヶ崖の夜襲」と呼ばれる戦いです。今日は、この「犀ヶ崖の夜襲」について書きます。下写真は「犀ヶ崖資料館」です。犀ヶ崖のすぐ脇にあり、周辺は小公園となっています。
犀ヶ崖は、浜松城北側1キロにある三方ヶ原台地の裂け目です。三方ヶ原台地上に降った雨水の流れが台地を侵食してできた浸食谷という地形です。 現在深さ約13メートル、幅約30メートル、長さ450メートル余りありますが、当時は深さ約40メートル、幅約50メートル、長さ約2キロあったといいいます。下写真は、崖上から見下ろした現在の犀ヶ崖ですが、まさに断崖絶壁という地形です。
犀ヶ崖の夜襲についても『三河物語』に書かれています。
『三河物語』によれば、大久保忠世が家康に鉄砲隊を集めて犀ヶ崖に陣取る武田軍に夜襲をかけようと進言したようです。なかなか鉄砲隊が集まりませんでしたがそれでも100挺ほど集めて犀ヶ崖に行って釣瓶撃ちに撃ったそうです。これを見た信玄は、戦には勝ったものの、家康および徳川軍は末恐ろしいとつぶやいたと書いています。
※三河物語原文は古文で読みにくいと思いますが、参考に引用しておきます。(読みやすいように一部現代風に修正しています。)
「信玄は犀ヶ崖にて頸ども実検して、そのまま陣どらせ給う所に、大久保七郎右衛門(忠世)が申上けるは、『かように弱々(よわよわ)としては、いよいよ敵方きおい申すべし。しからば諸手(しょて)の鉄炮を御集め成られ給え。我等が召連れて、夜打を仕らん』と申上ければ、もっともと御状にて、諸手を集め申すども、出る者もなし。ようよう諸手よりして、鉄炮が二三十挺計出るを我手前の鉄炮に相加へて、百挺計召連れて、犀ヶ崖へ行きて、つるべて(※つるべ撃ちで)敵陣へ打込みければ、信玄是を御覧じて、『さてもさても、勝ちてもこわき敵にてあり。是程に、ここはという者どもを数多打とられて、さこそ内も乱れてありやらんと存知(ぞんじ)つるに、かほどの負陣には、か様にはならざる処に、今夜の夜込は、さてもさてもしたり。末よき者どものありと見えたり。とにかくに勝ちてもこわき敵なり』とて、そこを引退け給いて、井の谷へ入りて、長篠へ出給う。」
三河物語には書いてありませんが、地理に詳しくない武田軍は、徳川軍の夜襲に大混乱し、崖に転落して多くの死者を出したと伝わっているそうです。
そして、「崖に布を張り、橋と見せかけて武田軍をこの谷に落とした」という伝説もある。当日は雪の降る日だったらしく、まるで白い布が橋を架けたように見えたという話も残されています。そして、この伝承にちなんだ「布橋一丁目」という町名が浜松市にあります。(下写真)
犀ヶ崖資料館と犀ヶ崖との間に「どうする家康」にも登場した本多忠真を顕彰した「本多肥後守忠真顕彰碑」があります。(下写真)
本多忠真は、『寛政重修諸家譜』には「鑓の名人」と書いてあります。そして、三方ヶ原合戦では、「吾軍、利あらずしてすでに御馬をかえしたまうに及びて、忠真、後殿(こうでん:殿のこと)となり、反(かえ)り撃つことしばしばにして、従者等多く討死し、忠真も自ら鎗を執って敵兵6・7人を殺すといえどもいよいよ逼(せま)り来るにより、鎗を捨て刀をもってまた3人を斬りすて、ついに敵中に入りて戦死す。」と書いてあります。家康を逃した後、殿(しんがり)として激闘し討死したようです。なお、『寛政重修諸家譜』には「呑兵衛」とは一言も書いてありません。当然といえば当然ですが…