根洗松と祝田坂(徳川家康ゆかりの地45《浜松⑤》)
三方ヶ原合戦がどこで行われたかは、現在でも特定されていないようです。しかし、三方原から北に下る祝田坂(ほうださか)が始まる辺り(現在根洗松がある場所付近)で行われたと主張する人が多いようです。そこで、浜松に行った際に根洗松にも行ってきましたので、今日は、根洗松とその先の祝田坂(ほうださか)をご案内します。
『三河物語』には「敵を祝田(ほうだ)へ半分ほど下ったところに攻撃をしかけたならば、たやすく勝てただろうが、はやりすぎて早く仕掛けた」と書かかれています。こうしたことから祝田坂(ほうださか)が始まる辺りが「今のところ、最も史料的裏付けを持つ説と受け止められており、通説として人口に膾炙しているわけだ。」(平山優著「新説家康と三方原合戦」p158より)そうです。
根洗松は、もともと大谷川上流にあったが大雨で根元が洗い流され、3メートル近くも根が露出していたそうです。そうしたことから根洗松という名前がついたのかもしれません。下写真は国道257号からみた根洗松です。
『浜松市史』には次のように、根洗松の少し南付近に信玄の本陣が置かれたと書いてあります。(下記赤字部分)
「12月22日信玄は、合代島のすぐ下の神増(かんぞう)のあたりで天竜川の本流を渡り、秋葉街道にでて南下して有玉(ありたま)にむかい、大菩薩(だいぼさつ)(当市有玉西町)から三方原の台地にあがり、追分に出た。さらに北方の祝田(ほうだ)にむかい祝田の坂で休止した。この坂の降口から約400メートル南に根洗の松がある。道をへだてたすぐ東がすこし高い。このあたりが信玄の本営址かという。」
根洗松は、祝田坂(ほうださか)の入り口でもあります。根洗松の向かい側には「祝田坂への旧道」と刻まれた石柱が建っています。(下写真)
「祝田坂(ほうださか)の旧道」をいくらか歩いてみました。根洗松の北側は600メートルほどは舗装された農道ですが、その先は未舗装の農道となります。(下写真)
その農道を150メートルほど進むと山道となります。「少人数のグループで散策できる」と浜松市北区役所発行のパンフレットに書いてありますが、案内する人がいなくは踏み入るのが躊躇される雰囲気の山道でした。(下写真)
下地図の中央が根洗松です。