浜松八幡宮(徳川家康ゆかりの地46《浜松⑥》)
「どうする家康」第18回の「紀行潤礼」で、「三方ヶ原合戦で敗北した家康が浜松城に帰城する際に一刻姿を隠した楠が残されている」として浜松八幡宮が紹介されていました。浜松八幡宮も本年(2023年)1月に訪ねていますので、本日は浜松八幡宮をご案内します。下写真は正面の鳥居です。
浜松八幡宮は、遠州鉄道八幡前駅から徒歩数分の所にあります。浜松駅から徒歩18分の距離ですので徒歩でも行けます。
浜松八幡宮は神社の御由緒によれば、仁徳天皇の時代に浜名湖の海運安穏のため、現在の浜松市南区小沢渡(こざわたり)町の許部に創建され、平安時代の延喜式には「許部神社」と所載されているそうです。そして、平安時代の天慶元年(938)に神託により許部の里から曳馬の里(現在地)に遷座したといいます。下写真が社殿です。
永承6年(1051)には、陸奥に向かう源義家が、神社の傍らの楠の下に旗を立て八幡二柱の神を勧請し、和歌一首を奉ったといいます。これにより、この楠を「御旗の楠」(みはたのくす)と称するようになったといいます。
元亀元年(1570)に徳川家康が、居城を岡崎より浜松へ移して以降、八幡宮が源義家勧請の武家の守護神であり、浜松城の鬼門の方位にあることから鬼門鎮守の氏神として信仰され武運長久を祈り度々参拝したといわれています。
そして、元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦に敗走した徳川家康は、敗走の途中八幡宮に逃れ社前の楠の樹洞(うろ)に潜み、武田軍の追跡を逃れたと言い伝えられています。家康が隠れた楠は、源義家が旗を立てたといわれ「御旗の楠」と呼ばれていた楠で、家康が隠れた時、この楠より瑞雲が立ち上った事から、それ以降、「雲立の楠」(クモタチのクス)と呼ばれるようになったということで、現在も「雲立の楠」と呼ばれています。下写真が「雲立の楠」の全景写真です。
『雲立の楠』は樹齢1000年を超える楠の巨木で、根回り約15m。枝張り四方約25m、樹高約15mもあります。前述の源義家と徳川家康の逸話があることから浜松八幡宮の御神木とされています。家康が隠れたとされる樹洞(うろ)は人が入れるほどの高さがありました。下写真で樹洞(うろ)の様子がわかると思います。写真手前の石碑には「雲立楠」と刻まれています。
正面の鳥居をくぐり境内に入ると左手に「颯々之松(ざざんざのまつ)」と呼ばれる松があります。下写真が「颯々之松(ざざんざのまつ)」です。
室町時代の永享4年(1432)に室町幕府6代将軍足利義教が富士山を見ようと下向した際に、この松の下で宴を開き「浜松の音はざざんざ」(ざざんざは松が風に吹かれる音)と謡い、以後この松を「颯々(ざざんざ)の松」と呼ぶようになったという伝承があります。
「曳馬拾遺」という本には、颯々の松とは野口村の森をいうとあって、一本の松ではなく30本余りの松が群生していたと記されていて、八幡宮から東に約100メートル離れた場所にあったようです。「颯々(ざざんざ)の松」は江戸時代から大変有名な松で、歌川広重が描いた『東海道五十三次』の「浜松」にも描かれています。以前、このブログでも紹介したことがありますので、下記記事を御覧ください。
野口村に「濵松名稱起源颯々之松」の記念碑が建てられていました。その記念碑が、平成23年3月に八幡宮の境内に移され、5代目の松が植栽されたようです。下写真が「濵松名稱起源颯々之松」の記念碑です。
下地図の中央が浜松八幡宮です。