武田信玄、死す(「どうする家康」60)
「どうする家康」第19回の冒頭で武田信玄が亡くなりました。三方ヶ原合戦で勝利した信玄は、三方ヶ原台地を下り、祝田の坂の先にある刑部(おさかべ)城に入り、そこで越年しました。下写真は、刑部城跡の写真です。
信玄は、そこで、各方面に戦勝を報告しています。28日には、朝倉義景の使僧にあって、義景への書状を託したといいます。それには、三方ヶ原合戦で勝利したことを報告するとともに朝倉義景が越前に兵を返したことを詰問しています。
元亀4年(1573年)正月、信玄は、再度動き出し、刑部城を出発し、三河に侵攻し、24・25日頃、野田城を包囲しました。そして、2月半ばには野田城を攻略したと言われています。
その後、野田城からさらに西に進むと思われた武田軍の進軍は止まり、2月17日には信玄は野田城を引き払い長篠城に入りました。これは信玄の病状が悪化したためと考えられています。病名は肺結核とも胃癌とも言われていますが確かではありません。
その後、信玄は長篠城において療養していましたが、4月初旬には遂に甲斐に引き上げることとなります。そして、甲斐に引き返す途中で、元亀4年(1573)4月12日、信玄は信濃駒場(長野県下伊那郡阿智村)で死去しました。享年53歳でした。信玄が死んだことにより、家康は危機を脱しました。
信玄は、死にあたって三つの遺言を残したといいます。遺言の一つが、三年間、信玄の死を秘匿するということでした。ここでいう三年間というのは「足かけ三年」という意味で、2年後のその日までという意味でした。
この遺言により、武田家は信玄の死を秘匿していましたが、「信玄が死んだらしい」という情報は広まり、5月には家康も駿河国内の武田方の諸城に攻撃をしかけています。しかし、武田方は有効な反撃を見せなかったことから信玄の死を家康は確信したと言います。