側室「お万」は次男秀康の母(「どうする家康」61)
「どうする家康」第19回では、築山殿の侍女「お万」が懐妊する話がありました。そこで、今日は「お万」について書きます。
「お万」は、「小督局」とも呼ばれることがあります。また、法名から「長勝院」ともよばれます。ここでは「どうする家康」で呼ばれていた「お万」と表記しておきます。
「お万」は、家康の次男結城秀康の母です。『徳川諸家系譜』に収録されている『幕府祚胤伝(そいんでん)』によれば、「お万」は、三河国池鯉鮒明神の宮司永見志摩守吉英の娘とされています。天正14年(※原文では天正14年となっているが、これはおそらく間違いで、正しくは天正元年のことと思われます。)、築山殿の御供で浜松城で奥勤していたところ、懐妊したため、別居し「小督局」と呼ばれたとされています。慶長12年に結城秀康が亡くなった後、剃髪し「長勝院」と名乗りました。元和5年12月6日、越前北の庄でなくなりました。享年71歳でした。
『幕府祚胤伝(そいんでん)』は、簡潔に書かれていますが、『玉輿記(ぎょくよき)』には、「お万」が懐妊した時、築山殿は嫉妬深い人だったので「お万」が懐妊したことを知ると裸にして庭の木に縛り付けてしまった。その泣き声を聞いた本多作左衛門重次が、「お万」を助けて、城下に逃し、そこで双子を出産したと次のように書かれています。
「その始め、お万の方懐妊ありしに、奥方築山殿嫉妬深き故、お万の方を赤裸になし、庭の樹木にしばりおかれしに、その頃、本多作左衛門重次お留守居在番たり、夜中女の嘆く声聞ゆ、あやしみ尋ね得て、彼女を助け縄を解き、様子を聞き得て、それより浜松の城下富見村(※正しくは宇布見村)において、天正2年2月8日出産す。双子にて、御一人は御即死、残る御一人は於義丸殿、後に云う結城家、今越前の祖秀康卿これ也。御幼年の間は、しばらく御対顔なかりしと云う。お万の方、後小督の局と申す。元和5年11月6日御卒去。越前北の庄に於いて、御年72歳、法名長勝院殿、すなわち敦賀顕教寺(※現在は敦賀に顕教寺という寺院はなさそうですが原文の通り記しておきます)に葬り奉る。」
ここで、築山殿が嫉妬のため、お万をしばりつけたり、浜松城から追放したという話は、家康の側室たちについて記した書物によく引用されるエピソードです。
しかし、黒田基樹氏は、その著書「家康の正妻築山殿」の中で、当時、正妻は側室を承認するかどうかの権限を持っていて、築山殿は「お万」を家康の側室とすることを承知しておらず、それにもかかわらず家康の子供を懐妊したため、お万は浜松城内から追放させられたのであり、築山殿が折檻をしたというのは創作されたものだと書いています。
浜松城を追放された「お万」は、本多重次の手配により、浜松近郊の宇布見村の中村家に滞在し、そこで男子を出産しています。生まれた子供は「於義丸」と名づけられ、天正12年に豊臣秀吉に人質として出され、元服にあたって「秀康」と名乗りました。その後、下総国の結城家の養子となり「結城秀康」となりました。そして、のちに松平姓に戻り「松平秀康」と名乗りました。
秀康は双子として生まれ、弟は早世したとされていますが、実際には、実家の永見家で養育され、永見貞愛(さだちか)と名乗っていましたが、31歳で死去しているようです。また、秀康の出産は、正妻築山殿が承認したものでなかったため、家康も子供として認知することができず、しばらく親子の対面も叶わず、のちにこのことを知った信康の計らいで親子対面が実現したとも言われています。
なお、秀康が生まれ育った中村家は、現在も建物が存在し、重要文化財に登録されています。浜松市のホームページで紹介されていますので、ご興味のあるかたはリンクした下記ページをご覧ください。