武田勝頼、信玄の後継者となる(「どうする家康」62)
武田信玄が元亀4年(1573)4月12日に亡くなった後、信玄の後継者となったのが、武田勝頼です。この後、徳川家康は、勝頼を総大将とする武田家と激しい戦いを繰り返すこととなります。そこで、今日は武田勝頼について書いていきます。
武田勝頼は、武田信玄の4男として、天文15年(1546)に生れました。母は諏訪頼重の娘で俗に「諏訪御料人」と呼ばれる女性です。
勝頼という名前には、諏訪氏の通字「頼」が入っていますので、諏訪家の後継者と期待されていたものと思われます。そして、永禄5年(1562) に勝頼は、高遠城主となっています。本来であれば、武田家を支える一門衆として一生を終わるはずでした。
ところが永禄8年(1565)8月、信玄の長男で今川義元の娘嶺松院を妻とする義信は、謀反が発覚し甲府の東光寺に幽閉されました。一方、同じ年の11月に勝頼は織田信長の養女龍勝院(苗木城主遠山直廉の娘)と結婚しました。そして、義信が2年後の永禄10年10月幽閉先で死去し、次男竜芳は盲目、3男武田信之は早世していたため、四男ながら勝頼が信玄の継嗣となりました。
その後、永禄12年11月には信玄とともに駿河に侵攻するなど各地を転戦し戦功を重ね、元亀2年(1575)には、勝頼は高遠から甲府へ呼び寄せられと言います。
そして、武田信玄が元亀4年(1573)4月12日に亡くなり、勝頼は信玄の後継者となりました。
武田信玄は、亡くなる前に遺言を残しました。『武田勝頼』(丸島和洋著)によれば『甲陽軍鑑』に記された信玄の遺言は、大きく三つにわけられ、①三年秘喪、②勝頼陣代・信勝家督、③当面の軍事・外交方針の指示の三つのようです。
一つ目の三年秘喪とは、信玄の死を三年間秘匿するようにということで、ここでいう「三年」とは、「足かけ三年」 の意味で、2年後の4月12日までということを意味したといいます。三年間、死を隠すため、信玄は、自分の花押だけを据えた紙を800枚ほど用意したといいます。また、弟の信廉(逍遥軒)は信玄と容貌がよく似ていたとされていて、毎日顔をあわせるほどではない家臣や、他国の使者には区別がつかないだろうからということから信廉を信玄の影武者とせよと言い残したといいます。
そして、足掛け3年の喪があける2年後の命日に信玄の遺骸を諏訪湖に沈めるよう指示したといいます。
遺言の二つ目は、信玄の後継者は孫の信勝(勝頼と龍勝院の間に生れた嫡男)で、勝頼は信勝が16歳で家督を継ぐまでの「陣代」とするというものでした。つまり、勝頼は中継ぎというものでした。さらに、信玄は、勝頼に武田の旗印、特に孫子の旗・勝軍地蔵の旗・八幡大菩薩の旗の使用を禁じたといいます。勝頼の旗印としては、以前と同様大文字の旗を用いよというものでした。そして、信玄が付けていた諏方法性の甲は、勝頼が着した後、信勝に譲るようとの遺言でした。
三番目の遺言は、軍事・外交方針に関するもので、上杉謙信との和睦を命じるとともに三年秘喪の間は他国への攻勢を禁じていたといいます。
以上が、信玄の遺言ですが、②の勝頼を陣代とするという遺言は,諏訪家の後継者と目されたものの急遽信玄の継嗣とされた勝頼にとって、武田家をまとめ上げるうえで甚だ都合の悪い遺言であることは否めないと思いますが、これについて、丸山和洋氏は、『甲陽軍鑑』の創作で、勝頼は実際に武田家の家督を相続していると主張しています。
勝頼は、この信玄の遺言を守り、2年間、信玄の死亡を隠し、積極的な対外攻勢には出ませんでした。その間にも、隣国では信玄が亡くなったという噂が流れ、徳川家康は武田領に対する攻勢を強め、駿河の諸城を攻めるとともに、元亀4年(1573)9月には長篠城を攻撃し、ここを落城させています。
そして、天正3年(1575)4月12日には、勝頼は、信玄の三回忌法要を済ませます。三回忌法要により三年秘喪の縛りが解けたことになります。それを機に三河に侵攻することとなり、その後の長篠合戦へと続きます。