岡崎クーデター=大岡弥四郎事件(「どうする家康」63)
「どうする家康」第20回のタイトルは「岡崎クーデター」で、岡崎城で起きた信康の家臣の謀反事件を中心に描かれていました。この事件は、多くの本で「大岡弥四郎事件」と呼ばれている天正3年の4月頃に起きた謀反事件です。
「どうする家康」第19回で描かれた武田信玄の死から2年後に起きた事件で、長篠合戦への途上で起きた事件です。「どうする家康」では、信玄の死後の2年間の動きがあまり描かれずに、あっという間に大岡弥四郎事件となっていましたが、大岡弥四郎事件は長篠合戦の途上で起きた重要な事件ですので、武田信玄の死から長篠合戦までの主な出来事を年表風にまとめておきます。
元亀4年(1573)4月12日 武田信玄死去
天正元年(1573)9月 家康、長篠城を開城させる。
天正2年(1574)6月 高天神(たかてんじん)城陥落
天正3年(1575)4月 勝頼、信玄の三回忌法要を行う。
天正3年(1575)4月 勝頼、足助(あすけ)城を陥落
天正3年(1575)4月頃 大岡弥四郎事件(3月という説もある)
天正3年(1575)4月29日 勝頼、吉田城を攻撃
天正3年(1575)5月21日 長篠合戦
これでわかるように大岡弥四郎事件は長篠合戦の直前に起きた事件です。大岡弥四郎事件が起きた時には武田勝頼は三河に侵攻しており、大岡弥四郎事件が解決した後、まもなく長篠合戦が起きています。「どうする家康」でも、次回は長篠城攻防戦、次々回は長篠合戦が描かれるものと思います。
それでは、大岡弥四郎事件について書いていきます。
天正3年4月、岡崎町奉行大岡弥四郎を中心とする信康家臣の叛逆事件といわれるものがおこりました。これが「大岡弥四郎事件」と呼ばれる事件です。
『三河物語』には詳しく書いてありますが、長文となりますので、『新編岡崎市史』に引用されている『岡崎市史』よる概要は次のようなものです。
大岡弥四郎は卑賤の出であったが、財政手腕があったので次第に重用され渥美郡の代官にまでなった。ところが、叛逆を企て、岡崎・浜松の間を往来して家康父子の離間をはかり、また山田八蔵重英らと共謀して密かに武田勝頼に通じ、「家康が岡崎城に入る時は大岡弥四郎が門前に行って扉を開かせる慣例であるので、勝頼が作手(つくで)まで出馬して、夜中に二、三隊の軍勢を岡崎に進めれば、自分が家康入城と偽って門を開かせ、軍勢を城内に導き入れ、直ちに信康を討ち取り、城内にある三遠の国衆の人質を捕えるならば、両国の国衆は服属するであろう。その上で浜松城を攻めれば、容易に陥落するであろう」と申し送った。勝頼は大いに喜んで日を定めて兵を発しようとした。ところが、山田八蔵は謀叛に与(くみ)したことを悔い、ひそかに信康にこれを知らせた。信康はすぐにこれを浜松に報ずるとともに、計略で大岡弥四郎を召し取り仲間も捕まえた。大岡弥四郎を縛って、三河と遠江両国を引き回し、岡崎の辻で生き埋めにして竹鋸で斬らせた。
以上が『岡崎市史』に書いてある大岡弥四郎事件の概要ですが、『新編岡崎市史』には「この事件は大岡ら数人が自分の利欲をはかって企てたものとなっているが、これは事実には相当遠いものとみられる。『三河物語』は大岡夫婦の話し合いの内容を詳しく紹介しているが、その内容は大久保忠教による創作というべきものでしかない。」と書いています。
そして、地元の伝承を丹念に記録し、松平・徳川中心史観とは無縁のところで成立している地元史書の『岡崎東泉記』の内容が真実にちかいものであり、それによると大岡弥四郎事件は、大岡弥四郎と松平新右衛門という岡崎町奉行という重職の三人のうち二人が中心となり、山田八蔵らが有力メンバーとなり、信康家臣中の同志を糾合し、武田勢を岡崎城へ引入れて信康を擁する新徳川家を築き、あわせて自己の地位の向上をはかったが、山田八蔵の変心によって失敗したというのが大筋だろうと主張しています。
つまり、岡崎の松平信康の家臣たちが、浜松の徳川家康に対して起こした謀反であると主張しています。
そのうえで、この事件に関して、武田家の謀略や築山殿の関与があったか否かは確認できないとしています。
「家康の正妻築山殿」(黒田基樹著)も、『新編岡崎市史』の論説を引用しつつ、この事件は「家老の石川春重に町奉行の大岡弥四郎・松平新右衛門、家老鳥居久兵衛の家臣小谷九郎左衛門らが中心になって起こしたものだったと思われる。(中略)家老の石川春重、岡崎町奉行のうちの二人、家老の鳥居久兵衛の家臣が参加していたということになれば、それは信康家臣団の有力者による謀反であったことになる」と書いています。
最後に『新編岡崎市史』に引用されている『岡崎東泉記』に当事者の賞罰が書かれていますので下記しておきます。
この事件の首謀者大岡弥四郎は、鋸挽きの刑に処されています。また松平新右衛門は大樹寺で切腹しています。一方で山田八蔵は謀反の計画を訴え出たことを賞され500石の加増を受けたようです。