武田勝頼、三河に侵攻する(「どうする家康」64)
武田勝頼は、天正3年(1575)4月12日、武田信玄の三回忌の法要を行った後、三河に侵攻します。この時の三河侵攻の延長線上に大岡弥四郎事件、長篠合戦があります。
「どうする家康」では、多少触れられていましたが、詳しくは描かれていませんでしたので、今日は、信玄の死去からの勝頼の動きを書いていきます。
元亀4年(1573)4月12日に信玄が亡くなった後、三年間秘喪の遺言に従って、武田家は、信玄の死を秘匿していました。武田家領内では、信玄はご隠居様と呼ばれて生存していることとされていました。また、同盟先の北条家でも、信玄は生きているものと信じられました。『武田勝頼』(丸島和洋著)によれば、北条氏政が派遣した重臣板部岡江雪斎は、面会した信玄の弟武田逍遙軒信廉を信玄だと信じて「信玄存命」と氏政に報告したといいます。
しかし、敵対する徳川家、織田家、上杉家では、天正元年(1573)の早い段階で信玄の死去を確信していました。そこで、家康は、天正元年(1573)7月に長篠城を攻撃します。これに対して、勝頼は、武田信豊・馬場信春ら救援に向かわせますが、その救援部隊が到着する前の9月8日に長篠城は落城しています。また、8月末には、作手城の奥平貞能・貞昌(信昌)父子が、作手城を脱出し家康の元に奔りました。
こうした家康の攻勢に対して、勝頼は、天正2年(1574)に入ると反撃に転じます。正月27日には、東美濃の岩村城に入り、明知城を包囲し2月に攻略しています。その後、4月後半に遠江に侵攻し、5月12日には徳川方の重要拠点であった高天神城を包囲します。高天神城は、信玄が三方ヶ原合戦の前に攻め落としていましたが、その後、徳川方となっていました。高天神城城主小笠原氏助は30日以上勝頼の猛攻に抗っていましたが、6月17日、氏助は降伏しました。
明知城や高天神城を攻略した勝頼について、信長は謙信への6月29日付の書状のなかで「(勝頼は)若輩であるが信玄の掟を守り謀略を用いるだろうから油断ならない」と高く評価しています。
高天神城の陥落は、徳川家にとって痛手であり、家康も信長同様に「勝頼は侮り難い敵だ」と認識したことだろうと思います。
天正3年(1575)になると、勝頼の動きは、一層活発になります。3月下旬には、三河国武節城を経由して足助城に向けて先鋒部隊を出陣させています。
そして、4月12日に、信玄の三回忌法要が、甲府躑躅ヶ岬館で長禅寺高山玄寿を導師、恵林寺快川紹喜を副導師として営まれました。これにより、信玄の遺言の三年間秘喪も解けたことになり、対外戦争も許されることになり、武田軍は、三河に本格的に侵攻することとなります。
三回忌の法要以前に足助城に向かっていた先鋒衆は、4月15日に足助城を包囲し、19日に降伏させました。なお、『武田勝頼』(丸島和洋著)によれば、足助城の攻略には、勝頼はもちろん山県昌景も参陣していなかったそうです。勝頼は、4月12日に甲府で行われた信玄の三回忌法要に参列していたとすれば、15日に足助城にいることは不可能ですので、足助城落城の際に足助にいなかったということは妥当だと思われます。
勝頼がいつ甲府を出陣したかは不明ですが三回忌法要の数日後に甲府を出発し、信州を経由し遠江に出て、浜松城にいる家康を牽制し、平山(浜松市三ケ日)を越えて、4月下旬に作手(つくで)で足助城を攻略した先鋒隊と合流したと考えられています。
先鋒隊と合流した後、勝頼は、野田城を攻略した後、吉田方面に向かい、4月29日には吉田城近くにある二連木城を攻略しました。岡崎クーデター=大岡弥四郎事件が成功した暁には、作手から岡崎城を狙うという構想だったと思いますが、岡崎クーデター=大岡弥四郎事件がうまくいかなかったので岡崎城攻撃は断念して吉田方面を狙ったのだと思います。
この時、家康は吉田城救援のため浜松から出撃し4月29日に吉田城に入城しています。吉田城に向かう途中で武田軍からの襲撃が予想されましたが、武田軍の襲撃を受けずに無事吉田城に入城しています。その後、武田軍は、吉田城を攻撃しましたが、簡単には落ちないと判断した勝頼は長篠城包囲のため軍を転進させました。こうして長篠城攻防戦が開始されます。