築山殿の武田家への内通の話(「どうする家康」66)
「どうする家康」第20回では、築山殿が千代とコンタクトをとる場面がありました。築山殿が武田家に内通していたという話は、同時代や江戸時代に書かれた本に記載されていますので、今日は、この話を紹介します。ただし、これらの話が史実かどうははっきりしません。
まず『新編岡崎市史』に引用されている『岡崎東泉記』の話を紹介します。『岡崎東泉記』は、元々、カタカナ交じりの漢文ですので、原文では読みにくいので、私なりに現代文風に修正して書いていきます。
『岡崎東泉記』の中の「大岡弥四郎のこと」の中に次のように書かれています。
家康様の御前築山様は菅生(現在の岡崎市菅生町)の築山に御屋敷あり、信康公の御屋敷である(岡崎)城外の北東にあたっている。今の久右衛門町である、この節、御前築山様お留守(岡崎城で留守を守っていたという意味か)で、殊に(家康との)御仲も不和である。その節、甲州より口寄せの巫女が数多(あまた)来て家中の町村を廻り口寄せをした。この時勝頼は巫女をだまして築山殿の御内でまず下女に色々とらせて取入り(次いで)下女より中間に取入り、最後は、奥女中達までに色々の進物をして取入って、終には(築山)御前様に御目見えするようになり、(築山殿に)能く取入って申し上げるのは、「若御前様(五徳のこと)に今度勝頼と御一味なされば、老御前(築山殿のこと)は天下の御台となりて天下無双に仰ぐべし。若殿(信康のこと)は若君と仕り、天下を相謀るべし」と申上る。その頃西慶と申す唐人の医者ありて御屋敷へ節々出、御前様(築山殿)の御意に入り、これを談合に巻き入れた。
『岡崎東泉記』によると、甲州から口寄せの巫女が大勢岡崎にやってきて、築山殿の屋敷にまでやってきて、下女に取り入り、さらに中間から奥女中までに取り入り、ついに築山殿に面会するまでになり、「五徳が武田勝頼の一味になれば、(勝頼が天下を取ることができ)、築山殿は天下の御台所となり、松平信康は天下の若君となって、勝頼とともに天下の政治を取り仕切ることができるようになります」と申し上げた。その頃、西慶という中国人の医者が築山殿の屋敷に出入りし、築山殿の御気に入りとなって、これも仲間に引き込んだようです。
築山殿が武田家と内通したという話は『松平記』にも書かれています。『松平記』は翻刻したものが見つかりませんでした。しかし。『徳川家康と武田氏』(本多隆成著)に引用されていましたので、それを参考に書いてみます。
『松平記』には築山殿に関して、「さてまた御母築山殿も、後には『めつけい』と申す唐人の医者を近付けて、不行儀の由、沙汰あり。あまつさえ家康へ恨ありて、甲州敵の方よりひそかに使を越し、御内通あり。縁に付くべきとて、築山殿を後には迎え取り申すべきのよし風聞す。まことに不行儀大かたならず、あまつさえ御子三郎殿(松平信康のこと)をもそそのかし、逆心をすすめ給わんと聞えし。家康よりも色々異見ありしを用い給わず」と書かれているようです。
『松平記』によると、築山殿は『めっけい』という名の中国人の医者を近づけて不行儀をしているという噂があったようです。そして、築山殿は家康に恨みがあって、敵方の甲州から使いがきて、武田家に内通しました。勝頼が築山殿を妻とするために迎えをよこすという噂もあったようです。さらに松平信康もそそのかし謀反を起こすようすすめたという噂もあり、家康が色々と注意したけれど言うことを聞かなかったと書いてあります。
これらの『三河東泉記』や『松平記』に書かれていることが、どれだけ事実を書いているかまったく不明です。『新編岡崎市史』でも「この一揆(大岡弥四郎たちの仲間)に、『岡崎東泉記』が伝える武田方の謀略や築山殿の関与があったか否かは確認できない」と書いてあります。
しかし、「どうする家康」はドラマですので、こうした築山殿に対する風聞も織り込んだ展開もあるかもしれません。「どうする家康」第20回の築山殿と千代の接触は、その一部なのかもしれません。今後、築山殿と信康が殺される「築山殿・信康事件」に向けて、築山殿に関してどのような展開になるのか注目してみて行こうと思います。