井伊直政、家康の小姓となる(「どうする家康」67)
「どうする家康」では、この間、何回か井伊直政が登場していますが、これまでの「どうする家康」で描かれた直政のエピソードは、すべて創作だと思われましたので、特にコメントしてきませんでした。しかし、第20回でようやく徳川家康の小姓として召し抱えられることとなりました。家康の小姓となったのは史実ですので、今日は、井伊直政について書いていきます。
「どうする家康」における今までの井伊直政の描かれ方がフィクションだと思ったのは、『寛政重修諸家譜』で述べられている井伊直政の経歴と異なっているからです。そこで、ここでは『寛政重修諸家譜』に書かれている井伊直政の経歴を紹介します。
『寛政重修諸家譜』には次のように書かれています。なお、『寛政重修諸家譜』の井伊家の項は、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。
永禄4年(1561)遠江国井伊谷(現在の浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれた。永禄5年、父直親が亡くなった時、直政も害せられるところを、新野(にいの)左馬助(親矩)が助命嘆願して、新野左馬助のもとで養育された。永禄7年(1564)に新野左馬助が討死したため、その妻が養育していたが、今川氏真がまたも直政を殺そうしたので、新野左馬助の叔父がいる浄土寺にて出家させ、死を免れた。永禄11年(1568)、今川氏真が没落した際に、浄土寺の僧とともに三河国の鳳来寺に逃れた。そののち、浜松に移り、直政の母が、松下源太郎清景に再嫁したため、そのもとで養育され松下を名乗った。天正3年(1575)2月15日、家康が浜松の城下で鷹狩りをした際、路辺で見出され、仕えるようになった。時に15歳であった。父祖の由来を尋ねられたため、詳しく言上したところ、これより井伊に名を改めるよう命じられ、旧領の井伊谷を拝領した。
『寛政重修諸家譜』を読む限りでは、天正3年(1575)2月に、直政は家康に見いだされているため、これまでの『どうする家康』での直政と家康との接触がフィクションということになります。
直政の父直親は、井伊直満の子として生まれました。当時の井伊家の当主は直親の従兄直盛でしたが、永禄3年(1560)直盛が桶狭間の戦いで今川義元ともに討死し、直盛には男の子供がいなかったため、直親が直盛の跡をつぎ、井伊家の当主となりました。しかし,永禄5年(1562)、井伊家家老の小野道好(政次とも)が今川氏真に直親は家康と通じていると讒訴したため、異心のないことを申し開くため駿府におもむく途中、掛川城主で今川氏真の重臣朝比奈泰朝(やすとも)の襲撃をうけ、掛川で討たれました。27歳でした。
ところで、直親が暗殺され、直政がまだ幼かったため、井伊家の当主となったのが井伊直虎すなわち2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公です。直親が暗殺されるシーンも「おんな城主直虎」にあったことを記憶しています。
改めて井伊家の当主を順に書くと直盛(直虎の父)⇒直親(直盛の従弟、直政の父)⇒直虎(「おんな城主直虎」の主人公)⇒直政ということになります。