長篠城攻防の歴史(「どうする家康」70)
「どうする家康」第21回では、長篠城に奥平信昌が籠城していました。ここでの攻防戦が、長篠の戦いの前哨戦となります。長篠城は、奥三河にあり、信州と国境を接しており、周辺は、有力な戦国大名今川氏、徳川氏、武田氏に囲まれていることからしばしば激しい攻防の場となっています。その頂点が長篠の戦いです。今日は、長篠城攻防の歴史について書いてみます。
奥平信昌が籠城した長篠城は、南を流れる寒狭川(現豊川)と東側を流れる大野川(現宇連川)の合流部(ここが渡合と呼ばれている)の断崖の上に築かれていて、この二つの川が外堀の役を果たしていました。下写真は南側から見た長篠城址です。昨秋、長篠城を訪ねた時に撮ったものです。
長篠は、信州飯田と三河の吉田(現在の豊橋市)を結ぶ交通の要衝であり、遠江の浜松にも通じていました。現在でも、長野県飯田市と愛知県豊橋市をつなぐJR飯田線には「長篠城駅」があり、城跡を飯田線が横切っています。また、長篠城跡近くを通る国道257号線は静岡県浜松市と岐阜県高山市を繋いでいます。
長篠城は、戦国時代の永正5年(1508)に、山家三方衆の一つ長篠菅沼氏2代目の菅沼元成が築城しました。菅沼氏は、もともとは土岐一族とも言われ、東三河の山間の作手(つくで)村菅沼を拠点としたことから、菅沼氏を称したとされています。その後、作手村から田峯(だみね)城(現在の愛知県北設楽郡設楽町田峯)に拠点を移し勢力を拡大しました。田峯城を拠点とする菅沼氏は田峯菅沼氏と呼ばれ、奥三河の一大勢力となりました。菅沼元成は、田峯菅沼氏から分かれた長篠菅沼氏の2代目で、その当時、三河に進出していた今川氏親(義元の父)に帰属していました。
長篠城は、周辺の戦国大名今川氏、徳川氏、武田氏からしばしば攻撃をうけ、その度に勝った方に帰属先を変えています。初代長篠城主菅沼元成以降、長篠菅沼氏は代々今川氏に属していましたが、永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、三河統一をめざす徳川家康により攻撃され家康に帰属するようになりました。
しかし、元亀2年(1571)、三河侵攻をめざす武田信玄は、奥三河に武将秋山信友を派遣し、諸城を攻撃させました。この時に、田峯城を拠点とする田峯長沼氏や作手亀山城を拠点とする奥平氏が武田氏に属するようになり、そして、時の長篠城主菅沼正貞も城を開き武田氏に属することになりました。こうして、山家三方衆と呼ばれる奥三河の有力武将はすべて武田方となりました。
ところが、元亀4年(1573)、武田信玄が亡くなると、徳川家康は、長篠城の奪回をめざし、7月から攻撃を開始しました。これに対して、武田勝頼は、長篠城救援のため、馬場信春、武田信豊、土屋昌次を派遣しましたが、救援軍が到着する前の9月初め、菅沼正貞は、城を開き家康に降伏しました。この時、長篠城を脱出した菅沼正貞は、武田氏側から、家康への内応を疑われ、小諸城に幽閉されています。
長篠城を攻略した家康は、落城した長篠城に松平(五井松平家)景忠を城番として入城させ守らせました。
一方、長篠城が落城する直前のの天正元年(1573)8月、武田氏に服属していた山家三方衆の一人の作手亀山城の奥平信昌が、居城の亀山城から出奔し徳川家康に帰属することになりました。そこで徳川家康は、天正3年(1575)2月28日、奥平信昌を長篠城主として長篠城を守らせることとしました。
「どうする家康」で奥平信昌が城主として、長篠城に籠城していましたが、こうした経緯を経て、長篠城に籠城していたのでした。