奥平信昌、父貞能とともに武田家から離反(「どうする家康」71)
長篠合戦の際に、長篠城を死守していた奥平信昌は、武田家から離反したうえで長篠城に入城していました。「どうする家康」の中で、奥平信昌が、武田家には絶対戻れないと言っていました。奥平信昌が、武田家を離反し徳川家康に帰属した経緯を知ると、そういう奥平信昌の心情が理解できると思います。そこで、今日は、奥平信昌が、父貞能(さだよし)とともに武田家を離反し徳川家に帰属した経緯について書いてみます。
まず、奥平氏の歴史について書いてみます。奥平氏の発祥は上野国奥平(現在の群馬県吉井町下奥平)であるとされています。8代貞俊は、南北朝時代の天授年間(1375~1381)に三河国作手(つくで)に移り、川尻城(新城市作手高里城山)を築いた後、亀山城(新城市作手清岳)を築城して、そこを居城としたとされています。戦国時代に入り、今川家が三河に進出してくるなかで、11代奥平貞勝までは駿河の今川氏の傘下にありました。
奥平氏は、作手の亀山城を拠点として勢力を拡張し、田峯城の田峯菅沼氏、長篠城の長篠菅沼氏とともに山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と呼ばれました。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、三河統一をめざす徳川家康の攻勢を受け家康に帰属しました。しばらく徳川家の傘下にあった奥平家は、元亀2年(1571)、武田家武将秋山信友による三河侵攻を受けました。その際、信昌の父奥平貞能は、引続き徳川家に帰属することを考えていたものの、既に周辺の田峯菅沼氏や長篠菅沼氏が武田方となっていたため、信昌の祖父奥平貞勝や貞昌の弟常勝が武田家に従うよう主張したため、奥平貞能および信昌もやむえず最終的に武田方に帰属することになりました。この際、奥平家は、3人の人質を武田方に出しています。※『徳川家康と武田氏』(本多隆成著)や『徳川家康と武田信玄』(平山優著)によると武田信玄が奥平家を帰属させたのは元亀3年としています。
元亀4年(1573)武田信玄が亡くなり、徳川家康は、三河領内の武田方諸城に対する働きかけを強めていましたが、奥平貞能・信昌に対しては、家康の長女亀姫を信昌へ輿入れさせることや領地加増などを条件として徳川家に帰参するよう秘密裏に交渉しました。
こうしたことから、奥平貞能は徳川家への内通を疑われ、武田方から尋問されましたが、なんとか武田方の疑いを晴らして亀山城に戻ることができました。
状況は急を要することを認識した奥平貞能・信昌父子は、作手の亀山城を退散し徳川のもとに奔ることを決意し一族郎党とともに退去し滝山城(岡崎市宮崎町)に移りました。一方、武田派の奥平貞勝・常勝は亀山城に残りました。
奥平貞能・信昌が出奔したのに気付いた武田軍は滝山城を攻撃しましたが、奥平軍の反撃を受け攻略することができませんでした。さらに、徳川家の援軍がやってきたため、武田軍は引き払いました。
その後、奥平信昌は、家康から長篠城の城主となるよう命じられました。そこで、奥平貞能より約300人の軍勢を譲りうけ、長篠城に入りました。一方、父奥平貞能は、残り100人ほどの軍勢を率いて家康の旗本として戦うことなりました。
こうした経緯があるため、武田軍は奥平信昌が守る長篠城を徹底的に攻める一方、奥平信昌も、武田家に降伏するという選択肢はありえず、頑強に抗戦したのでした。
奥平家では、武田家に人質として信昌の妻や弟など三人を差し出していましたが、貞能・信昌の離反により、この三人は殺害されました。
家康の娘亀姫が奥平信昌の妻となりますが、奥平信昌自身にとっては妻を殺害されるという災禍があったうえでの結婚だったわけです。このことについては、次回、説明したいと思います。