織田信長、長篠にむけて出陣する(「どうする家康」73)
長篠城を包囲された徳川家康は、徳川家単独で武田軍と戦い長篠城を救援するのは困難と考え、織田信長に援軍を要請しました。
家康の要請を受けて、信長は、『信長公記』によれば、5月13日に嫡男信忠とともに岐阜を出陣し、その日は熱田まで進み、14日は岡崎に着陣し15日まで滞在しています。この時、鳥居強右衛門が救援依頼の使いとして岡崎に到着し信長に謁見しています。その後、16日には牛久保城に入り、17日は野田原に野陣し、18日には設楽原の極楽山に本陣を構えたと書いてあります。
武田勝頼が長篠城を包囲したのは『当代記』には5月1日と書かれています。前年天正2年(1574)の遠江高天神城の場合は、5月12日に包囲が開始され、その救援のため信長が出陣したのは6月14日で、19日に今切(静岡県湖西市)まで来た時に、高天神城が開城してしまい、救援が間に合いませんでした。それに比べると、かなりスピーディに信長が出陣したように思われます。おそらく、前年の高天神城救援失敗を教訓に、早めに出陣をしたものと思いますし、長篠城が落城した場合の影響度の大きさを考慮したうえでの決断だったのではないかと考えます。
なお、「どうする家康」第21回では、徳川家康が織田信長の援軍が派遣されるのが遅いことに憤り、信長との同盟を破棄すると伝え、それに対して信長が怒りをあらわにするというストーリーでした。
この話は、「どうする家康」の創作とばかり言えないように思われます。『甲陽軍鑑』に次のような話が書かれているからです。
『甲陽軍鑑』には、家康は、譜代の小栗大六を使いとして信長に2回にわたり援軍を要請したが、信長からは2回とも出陣できないという返事であったと書いてあります。
そこで、家康は三度目の使いを小栗大六に命じる際に、「信長殿と起請文を交わし、『互いに援軍を送り合う』と約束したのに従い、近江箕作(みつくり)からこれまで、若狭・姉川と加勢してきた。今度信長殿の御出馬がなければ、勝頼に遠江を差し出し、自分は三河一国のみを治めるという条件で、すぐにでも勝頼と和睦しようと思う。信長殿が、すぐに長篠の後詰めを送らなければ、起請文をそちらから破ったことになるので仕方ない、誓約を破棄し勝頼と和睦して先鋒をつとめ尾張に撃って出て、遠江の代わりに尾張を頂戴しようと思う。その場合には徳川家は勝頼の旗本として働くので、尾張は一日で制圧できるとお考えください。」と言えと命じました。
これを受けて、小栗大六は、岐阜に向かい、信長に3度目の要請をしたが、信長がこれを断ったので、やむえず信長の家臣を通じて家康の意向を伝えたところ、ついに信長が出馬したと『甲陽軍鑑』に書いてあります。なお、『甲陽軍鑑』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。
家康は、信長が救援に出馬しなければ、勝頼と和睦して尾張を攻めると言っており、信長に強硬に迫っているように思えます。
この『甲陽軍鑑』の記述を踏まえて、丸島和洋氏は『武田勝頼』(平凡社)の中で、「家康が使者に述べさせたとされる発言は、事実の可能性があるばかりか、外交上の駆け引きとも言い切れない。武田勢の攻撃に独力で対処できない状況が長期化し、信長が本腰をいれて援軍を出さないようであれば、武田氏との和睦に動いても何ら不思議ではないのだ。『清須同盟』と一般にいわれる信長と家康の同盟が破綻しなかったのは結果論であって、この時、最大の危機を迎えていた。」と書いています。
丸島和洋氏の説によれば、家康と信長の同盟は、この時、本当に破綻したかもしれなかったようです。