亀姫は気性が激しかったかも!(「どうする家康」74)
奥平信昌と結婚することとなった亀姫は、「どうする家康」では心根の優しい姫様と描かれています。しかし、その一方で亀姫は気性の激しい女性とも伝わっています。そのエピソードの多くは、徳川家康が幕府を開いた後の話ですので、おそらく「どうする家康」で描かれることはないと思います。そこで、今日は、「結婚後の亀姫」について紹介します。
奥平信昌は、長篠城の攻防戦を戦い抜いて、家康と信長から高く賞賛され、信長から「信」の一字を拝領し「信昌」と改名(それまでは「貞昌」)し、家康の長女亀姫と約束どおり天正4年(1576)7月に結婚しました。
そして、亀姫は、奥平信昌との間に、四男一女の子供をもうけます。長男家昌、次男家治、三男忠政、四男忠明、そして一女は大久保忠隣の嫡男大久保忠常の妻となりました。
天正18年(1590)、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉の命により家康は関東へ国替えとなりますが、この時、奥平信昌は、上野国甘楽郡宮崎城主として3万石を拝領します。甘楽郡は、奥平家発祥の地の隣郡ですので故郷に錦を飾ったことになります。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに参陣し、戦いの直後、京都の治安を維持する京都所司代を命じられ、京都に潜伏していた西軍の安国寺恵瓊(えけい)を捕縛しました。この安国寺恵瓊を捕縛したのが鳥居強右衛門勝商の息子信商でした。
翌慶長6年(1601)3月には、それまでの功績を賞され、美濃国加納城主10万石へ加増転封されました。それまでの美濃国の中心であった岐阜城は、西軍に与した織田秀信(信長の嫡孫)の居城だったため破却され、その代わりに豊臣氏や西国大名を牽制するための拠点として、岐阜城近くの加納に築かれたのが加納城です。
奥平信昌が加納城主となったため、亀姫は加納殿もしくは加納御前と呼ばれるようになりました。(以下、亀姫〈加納殿〉と表記します)
一方、長男家昌は、信昌とは別に慶長6年12月に下野宇都宮城10万石を拝領しました。家昌が宇都宮に配置されるにあって、家康が天海僧正に重要地の宇都宮城主はだれが良いか尋ねたところ、天海は、誰彼と論ずる必要なく、奥平家昌に与えるべきと即座に答えたので、家康も我が意を得たりとして喜んだといわれています。
慶長7年(1602)になると、加納城主奥平信昌は隠居し、三男忠政が跡を継ぎました。この時、既に長男家昌は別家として宇都宮城主となっていて、次男家治は徳川家康の養子となって別家を立てたものの天正20年(1592)に亡くなっており、四男忠明は家康の養子となって家治の跡を継いでいため、三男の忠政が加納藩主となりました。しかし、忠政は慶長19年(1614)10月、父に先立って死去しました。享年35歳でした。忠政の跡をその子忠隆が継ぎましたが、忠隆はまだ7歳で幼かったため、祖父信昌が政務を取りしきりました。その信昌も翌慶長20年に亡くなりました。享年61歳でした。信昌がなくなったことから、それ以降は、亀姫〈加納殿〉が孫忠隆を補佐しました。
また、宇都宮に封じられた家昌は、慶長19年(1614)に亡くなりました。38歳の若さでした。そこで、まだ7歳の忠昌が跡を継ぎました。おそらく、亀姫〈加納殿〉は、忠昌も後見したものと思われます。
奥平忠昌は、元和5年(1619)に、突然、宇都宮から下総国古河藩に転封となりました。一応1万石の加増でしたが、奥平忠昌の跡に入った本多正純は15万石でした。この転封に激怒したのが亀姫〈加納殿〉でした。
奥平家は、長篠城の攻防戦を戦い抜いた武功派、一方、本多家は、合戦とは無縁な文治派でした。長篠城の戦いを知っている加納殿は、合戦の経験のない本多正純に宇都宮を追い出されたと思い、許せないと思ったと思われます。さらに、加納殿の愛娘が嫁いだ大久保忠常(慶長16年に病死)は、大久保忠隣の嫡男でしたが、慶長19年(1614)に大久保忠隣が改易となります。この改易は、本多正信・正純父子の陰謀という見解もありますので、亀姫〈加納殿〉は本多父子が大久保家を取り潰したと考えたかもしれません。
こうした遺恨のある本多正純が、奥平忠昌の後の宇都宮藩主となることから、亀姫〈加納殿〉は激怒したものと思われます。
そのため、国替えの際には、城に備え付けられているものはそのまま残しておくように定められていましたが、亀姫〈加納殿〉は、城内の竹木を伐採したうえで、襖・障子、畳などの建具・調度類の一切を古河に運ぼうとしました。結果的に、この行為は国境で阻止されたようですが、亀姫〈加納殿〉の激怒ぶりをあらわしています。
その後、元和8年(1622)に宇都宮藩主本多正純は改易となります。そのきっかけとなったのが、元和8年4月に日光社参の帰路に宇都宮城で徳川秀忠を暗殺しようとしたとされる事件です。これが俗に「宇都宮城釣天井事件」と言われる事件で、その暗殺計画を秀忠に通報したのが亀姫〈加納殿〉だったと言われていて、『徳川実紀』にも亀姫〈加納殿〉の名前が登場しています。(※後記参照)
こうして改易された本多家の後に古河藩から戻ってきたのが奥平忠昌でした。もし、本多家改易に亀姫〈加納殿〉が関与していたとすれば、亀姫〈加納殿〉は溜飲を下げたことでしょう。
これらの事柄が事実だとすれば亀姫〈加納殿〉はかなり気性の激しい女性だったと思われます。もし親の性格が遺伝するということがあるとすれば、亀姫〈加納殿〉の気性の激しさは母親築山殿のそれが遺伝したのかもしれません。
このように厳しい戦国の世や江戸時代初めの政争を生き抜いた亀姫〈加納殿〉は、寛永2年(1625)、66歳で死去しました。法名は盛徳院殿香林慈雲大姉といいます。『幕府祚胤伝』によると家康には五人の娘がいます(亀姫、督姫、振姫、松姫、市姫)が、亀姫〈加納殿〉が最も長生きで姉妹の中で最後になくなりました。
亀姫〈加納殿〉死去後、加納藩奥平家は、寛永9年(1632)1月、藩主奥平忠隆が25歳で死去し、跡継がいなかったため、無嗣断絶となりました。
一方、宇都宮藩奥平家は、一旦、山形に転封となった後、貞享2年(1685)三度目の藩主として宇都宮に戻り、さらに享保2年(1717)に豊後国中津藩に転封となり、明治維新まで長く中津藩を治めました。
また、四男の忠明は、徳川家康の養子となり奥平松平家を立て、その子孫は、忍藩(埼玉県行田市)藩主として明治維新を迎えています。
※「徳川実紀」の記述
「世に伝うる所は、奥平美作守忠昌の祖母は神祖の御長女なり。奥平と本多と宇都宮□替の時より、この姫君正純を心よからず思い給いしに、今度正純が御旅館営造のさま奇巧を極め、世上種々雑説行われ、その上城中にてひそかに蒺蔾(しつれい:「まきびし」のこと)数多く設け、御旅館を高く造り、その下を自由に数人往来すべくかまえ、この営造深夜にいそぎて構造し、また構造にあずかりし根本同心百人を一日のうちにことごとく誅したり。またこのころ京よりあまた銃を苞苴(つと)にして下したり。これらの事もっとも不審なり。御用意なくてはいかなる珍事引出さんもしるべからずと、御消息にしたため給い、そのころ奥平がもとにめしあずけられし堀伊賀守利重もて進(まい)らせらる。」(「台徳院殿実紀巻56 元和8年4月」より)

