織田信長、徳川家康とともに前線で指揮する(「どうする家康」76)
「どうする家康」で、織田信長が徳川家康の陣地にやってきて、家康とともに戦場を見渡しながら戦闘開始の指揮をするシーンがありました。これは、史実で、『信長公記』(しんちょうこうき)に「信長は、家康の陣所に高松山という小高い山があるのに上り、敵の動きを見て、指示があり次第行動を起こすよう前々からいい含めていた。」と書かれています。
信長は、5月18日に設楽原に到着した時には、設楽原の極楽寺山に陣を構えました。『信長公記』には「志多羅(したら)之郷極楽寺山に御陣」と記されています。
信長は、その後本陣を茶臼山に移しています。本陣を移動した時期ははっきりしていないようです。信長の茶臼山の本陣は、現在は「織田信長戦地本陣跡」と呼ばれていて、新東名高速道路の長篠設楽原PAから歩いて行くこともできます。上写真は、長篠設楽原PAから織田信長の本陣跡に登る途中にある看板です。

階段を登りきると茶臼山稲荷神社が鎮座しています。その前には新城市教育委員会が建てた説明板「織田信長戦地本陣跡」があります。(下写真が茶臼山稲荷神社です)

徳川家康も、天正3年5月18日に設楽原に着陣し、極楽寺山より東方の弾正山に陣を構えています。家康の本陣は戦場に非常に近い場所に設けられました。一方、信長が設けた極楽寺山は、弾正山より西方にあり、武田軍からは弾正山が邪魔をして見通すことができないところにあります。今回の戦いは三河での戦いで、中心はあくまでも家康で、信長は救援する立場でした。そのため、家康は戦いの前面に立って戦う決意を示すこともあって、その本陣が決戦場に非常に近い場所に設けられたのだと思います。下写真が「設楽原をまもる会」が設置した「家康本陣地」と刻まれた石碑です。山林の中に設置されています。

戦場に近いと言っても、家康が本陣を構えたところからは、最前線の様子を見渡すのは困難だったと思われます。そこで、家康は戦闘が本格化した時点で、最前線が見える場所に移動したと言われています。その際に家康が物見をした場所が「家康物見塚」として残されています。下写真は「家康物見塚」の石柱です。

物見塚は、決戦が行われた連吾川からはわずか300mほどの距離です。戦場の真っ只中といった感じの場所です。下写真は物見塚から見た連吾川方向です。遠くに見える林との間にある水田の真ん中を連吾川が流れています。物見塚からみると決戦場はまさに目の前という感じに見えます。

「どうする家康」で、信長は家康と並んで戦闘開始を指揮するシーンがありましたが、おそらく「家康物見塚」から戦場を見渡す光景をイメージしたものだと思います。

