水野信元、誅殺される(「どうする家康」80)
「どうする家康」第23回では、信康・築山事件の序章が描かれていて、築山殿の武田家への内通の兆しが描かれていました。その話の流れの一環として、水野信元の誅殺(ちゅうさつ)が描かれていました。そこで、今日は、水野信元の誅殺について書いていきます。
水野信元は、言うまでもありませんが、徳川家康の母於大の兄ですので、家康とは叔父・甥の関係です。その水野信元を家康が殺害しました。このことについて、『寛政重修諸家譜』の水野信元の項に次のように書いてあります。『寛政重修諸家譜』は、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。
「(天正)三年佐久間信盛が(=の)讒(ざん)にあいて、右府(信長のこと)の憤りをこうむり、岡崎に逃(の)がる。右府使いして信元を殺さんと乞(わ)れしかば、東照宮(家康のこと)にもやむことを得たまわず、信元を諭(さと)され三河国大樹寺におらしめ、12月27日石川数正、平岩親吉がために害せらる。大英鑑光信元院と号す。」
これを読むと水野信元は、佐久間信盛の讒言(ざんげん)によって、信長の怒りを買い、岡崎に逃れたので、信長は家康に殺害を要請し、家康はやむえず大樹寺に潜ませたあと、石川数正と平岩親吉によって殺害されています。
『寛政重修諸家譜』の平岩親吉の項では、水野信元殺害の様子がより具体的書かれています。それには「右府より東照宮の御許に信元を害すべき旨申し来るといえども、これを殺すに忍びたまわず、大樹寺に潜居せしめらるるところ、右府なお怒り解ざるにより、石川数正をして信元を岡崎(城)に迎えしめらるるの時、親吉密旨を奉わり、中途にしてこれを殺害す。」と書かれています。これによると、水野信元を大樹寺から岡崎城に迎えようと誘いだし、その途中で平岩親吉が殺害したようです。「どうする家康」で平岩親吉が殺害していましたが、これは史実だということになりそうです。
『寛政重修諸家譜』の水野信元の項には、佐久間信盛の讒言とだけ書かれていて詳しいことは書いてありませんが、その経緯について『新編岡崎市史』に書かれています。
長篠の戦いで勝利した武田勝頼に信長と家康は、それぞれ武田方の諸城の攻略に力をいれました。
家康は6月から二俣城の攻略を開始しますが、信長も6月から東美濃の岩村城の攻略をめざし包囲を開始しました。武田方は、頑強に抵抗したため、織田方は包囲を強化しました。そのため、岩村城は兵糧不足に陥りました。そこで、岩村城側は、商人を諸方に送って貨幣や道具類で食料の購入をはかりました。水野信元の城下町である刈谷(愛知県刈谷市)や小河(緒川:愛知県知多郡東浦町)でも食料を売る者がありました。そこで、信元と仲の悪かった佐久間信盛はこれを知って、信元が秋山に一味し食料を岩村城へ届けていると讒訴しました。これに対して、水野信元は、家老一人を派遣しましたが、その途中で、家老は信長の使者と酔って喧嘩し二人ともに死んでしまい、水野信元は弁明ができなくなってしまいました。この件についても佐久間信盛は水野信元が喧嘩を装って使者を斬ったと讒訴したため誅殺が決まったということです。
佐久間信盛と水野信元とは、前々からな仲が悪く対立していたという説もありますので、以前から佐久間信盛は水野信元を陥れようとしていたのかもしれません。
家康にとっては水野信元誅殺は苦渋の処断ということになりますが、「信元は家康の伯父にあたり、信長との間の仲介役的地位にある人物ではあったが、家康家臣ではない。信長から殺害命令が出ると、いかに不本意でもそれに従わねばならなかったということである。」と『新編岡崎市史』には書かれています。
なお、水野信元の誅殺により断絶した水野家は、天正8年に佐久間信盛が追放された後、再興されています。信長も佐久間信盛の訴えが讒言であることを認めたのかもしれません。

