お愛の方(西郷局)は名門の出身(「どうする家康」81)
「どうする家康」第22回で、侍女お愛が側室になるストーリーが描かれていました。そこで、今日は家康の側室お愛の方(西郷局)について書きます。
「どうする家康」でお愛と呼ばれていた女性は、側室となってからはお愛の方あるいは「西郷局」と呼ばれ、2代将軍となる三男秀忠および四男松平忠吉の母となる女性です。
お愛の方の出自には諸説があるそうですが、『幕府祚胤伝』によれば、お愛の方が家康の側室として召し出されたのは天正6年(1578)となっています。きっかけは、家康が家臣の蓑笠之介正尚の屋敷を訪ねた際に初めてお目見えになり、すぐに浜松に召し連れて行き、叔父の西郷清員(きよかず)の養女として、それ以後、家康の命により「西郷局」と呼ばれるようになったと書いてあります。
「西郷局」と呼ばれたのは、お愛が西郷家の出身であったからだと思われます。
西郷家は、天正年間には、家康の家臣となっていましたが、もともと岡崎の地を支配していた名門で、家康が幼少の頃でも、遠江との国境に近い東三河の有力国衆でした。桶狭間の戦いまでは今川方でしたが、桶狭間の戦いの後、家康に帰属しました。
お愛の方の祖父は、西郷正勝と言い、桶狭間の戦いの後、家康に帰属した際の西郷家の当主でした。その娘が戸塚忠春に嫁ぎ、生まれた娘がお愛の方です。ところが、お愛の方の父戸塚忠春が戦死したため、母はお愛の方を連れて服部平太夫正尚と再婚しました。服部平太夫は、後に『幕府祚胤伝』に登場する蓑笠之介と改名しました。そこで、お愛の方は蓑笠之介に養育され、従兄で西郷家の当主西郷義勝と結婚しました。しかし、義勝が戦死したため、母の許に戻っていました。そこで、家康に見初められたということになります。
当時の西郷家の当主は西郷清員でした。西郷清員は、お愛の方の叔父となりますので、その養女として、家康の側室となりました。お愛の方は17歳でした。
天正7年(1579)に男子を産みましたが、この子が後に2代将軍となる秀忠です。そして翌天正8年に再び男子を産みました。この子が松平忠吉です。
そして、お愛の方は、小田原北条氏が滅亡し家康が関東に入府する前年の天正17年(1589)5月19日、駿府にて亡くなりました。つまり、お愛の方は、江戸に入ることはできませんでした。享年28歳でした(※インターネットで検索するとお愛の方の享年を38歳とするものが多数ありますが、ここでは『幕府祚胤伝』『寛政重修諸家譜』に28歳と書いてありますので、それによって28歳としておきます)。
このように『幕府祚胤伝』を読む限りでは、お愛の方は、蓑笠之介の屋敷で見初められて浜松城に召され側室となったようですので、それ以前に浜松城内で侍女として仕えたことはなさそうです。
ところで、「どうする家康」では、岡崎の築山殿に、お愛の方が挨拶に出向き、築山殿が側室になることを了解する場面がありましたが、実際に挨拶に出向いたかどうかは別として、秀康を産んだお万の方とは明らかに異なる対応をしています。黒田基樹氏によれば、当時の正妻は側室を公認する権限を持っていたそうです。次男秀康の母お万は、築山殿に公認されていない側室であったため、浜松城内で出産することができませんでしたし、産まれた子供(後の秀康)も当初は家康の子供として認められませんでした。しかし、お愛の方の場合には、築山殿の了解が得られたので、お愛の方は、正式な側室として公認され城内で家康に仕えることができようになりました。

