松平信康は乱暴者だったという話(「どうする家康」82)
「どうする家康」第23回では、松平信康が、鷹狩りの帰りに僧を斬り捨てたという話がありました。実際に斬り捨てた場面ではなく、信康が岡崎城内で平岩親吉や築山殿らと興奮して話している場面でしたが…
『三河物語』では、信康・築山殿事件の発端となったと言われる信康の正妻五徳から織田信長へ出した書状のなかに、築山殿と信康に関して12条の事柄が書かれていたとしています。しかし、『三河物語』には12ヶ条について具体的な項目は書いてありません。その一方で、『松平記』には、12ヶ条の具体的な内容が書かれていて、その中には鷹狩りの帰りに僧を殺害したことが含まれているようですが、『松平記』は翻刻されたものが見つからないので確認できませんでした。
ところが、『改正三河後風土記』に、松平信康が鷹狩りの帰りに僧を殺害したという話が載っていました。そこで、今日は『改正三河後風土記』に書かれている話を紹介します。
『改正三河後風土記』は、江戸時代後期に書かれた文書ですので、原文には難解の語句が出てきます。そこで、難解な語句をわかりやすくしたうえで、僧殺害の話を『改正三河後風土記』に沿って書いてみます。
「この殿(松平信康のこと)は、勇猛剛毅の大将である。今の世に並びなき猛将と噂されている武田勝頼さえ舌を巻いて感嘆した程の事なので、信康ご自身も私に勝る者はないだろうという気持ちを持っていたようである。近頃は横暴な挙動が多くて、直属の家臣たちも諫言することもできず嘆いていた。信康がある日鷹狩りに出たが、一羽の鳥も得られなかったので、機嫌がよくないまま帰城することになった。その帰りの途中で一人の僧に行き逢った。近習の若者たちが何とか機嫌を直そうと思って、「だいたい狩場で僧に会う時は必ず獲物がないという者があります。坊主が呪文を唱えると、生き物は命が助かるといいます。」と申し上げた。すると信康は「さてさてあの坊主が俺の鷹狩りの邪魔をしたんだろう。よし、今日の獲物はこの坊主にするぞ」と言って、その僧を捕まえて首に縄をつけて馬の鞍にくくりつけ、馬に鞭をあてて馬をはしらせた。馬は僧を引きづって速足で駆けだしたので、僧はすぐに息絶えてしまった。」
「どうする家康」では、前述のように僧を斬り捨てたように描かれていましたが、『改正三河後風土記』では馬で引きずって殺すという斬り捨てるより残虐な方法で僧を殺害したと書いてあります。
『改正三河後風土記』は、前述の通り、江戸時代後期の天保4年(1833)に書かれた書物であり、幕府儒者の成島司直(もとなお)が編纂し将軍にも献上されたと言います。
この話は『改正三河後風土記』巻16の「築山殿凶悍 信康君猛烈の事」という項目に書かれています。この中で築山殿や信康は、タイトルでわかるように全体的に悪人・猛烈な主君だったというトーンで書かれていて、ここに載っている話が本当にあったことかどうかわからないと思いました。しかし、『シリーズ織豊大名の研究10 徳川家康』(柴裕之編)収録の『信康・築山殿事件』(新行紀一著)の中で新行紀一氏は、「(五徳が信長に送った)書状の内容は後世になるにしたがって誇張されているため、真偽の確認は難しいが、『松平記』が天正4年のこととする踊りの流行と信康による踊り手殺人事件、および鷹狩の帰途における僧侶殺害事件は、決して作られた話ではないだろう」と書いています。

