信元誅殺後の水野家の繁栄(「どうする家康」84)
先日、水野信元が誅殺されたことを書きました。その最後に水野家が再興されたことを書きましたが、水野家は、江戸時代、多くの大名家を輩出し、しかも老中を出すなど幕政に大きな影響を与え繁栄することになります。
明治維新を大名として迎えた水野家は、下総結城藩(宗家)、駿河沼津藩、上総鶴牧藩、出羽山県藩の5大名家、さらに大名ではないものの大名並の石高を持っていた紀州藩付家老水野家がありました。しかも、水野家からは幕政に大きな影響を与えた老中が多数出ています。最も有名な人物としては天保の改革を進めた水野忠邦が挙げられます。その他、享保の改革時に8代将軍徳川吉宗を補佐した水野忠之、田沼意次とともに10代将軍家治を補佐した水野忠友、11代将軍徳川家斉を補佐した水野忠成(ただあきら)らが老中として幕政に大きな影響を与え、江戸時代政治史に名を残しています。
そこで、今日は、水野信元亡き後の水野家がどうなったかについて書いてみます。
水野信元は、子供は女子だけでした。そこで、信元は弟信近の子水野信政を養子としていました。しかし、水野信政も信元が誅殺された際に殺害されています。 しかし、佐久間信盛が織田信長により追放されると、末弟(八男)の忠重が水野家を再興しました。水野忠重は、水野家再興後織田信長に仕え、信長暗殺後は、織田信雄、豊臣秀吉と主人を替えた後、家康に帰参しましたが、慶長5年7月関ヶ原の戦いを前にして刺殺されました。そこで、家康近くに仕えていた嫡子勝成が水野家の相続を命じられ刈谷城主となりました。水野勝成は、関ヶ原の戦い、大坂の陣で活躍し、大和郡山藩へ転封した後、10万石で備後国へと転封となり、福山城を築城しています。福山城は、西国大名を抑える重要な拠点と位置付けられて築城されています。水野勝成が期待されていたことがわかります。その後、福山藩水野家は、勝成の曽孫勝岑の代に無嗣断絶となりました。しかし、「先祖の旧勲」によって、能登国内で大名としての水野家が再興されました。その後、下総結城藩に移封され、そして明治維新を迎えています。この結城藩水野家が、水野家宗家です。
駿河沼津藩は、水野勝成の弟忠清が初代となった家柄です。水野忠清は徳川秀忠の家臣として仕え、上野国小幡城1万石の城主となり、大坂の陣で軍功をあげ、刈谷2万石の城主となり、その後、三河国吉田藩を経て、松本藩7万石に加増転封されています。その子孫は、5代にわたり松本藩主でしたが、第6代藩主水野忠恒の代に刃傷事件を起こして改易となっています。しかし、その叔父忠穀が水野家を相続し7000石の旗本として家名だけは存続しました。そして、忠穀の嫡男水野忠友が10代将軍家治に仕え、三河国大浜藩主として大名に返り咲き、後に駿河沼津藩3万石となり、老中にまで昇進しています。その養子水野忠成(ただあきら)は、11代将軍を補佐し権勢を誇りました。沼津藩水野家は、そのまま明治維新を迎えました。
上総鶴牧藩水野家の初代は。水野忠清の孫の水野忠位(ただたか)です。水野忠位は、安房北条藩を経て、上総鶴巻藩に転封され、明治維新まで続きました。
水野家の中で最も有名は人物は、何と言っても天保の改革を実行した水野忠邦でしょう。
水野忠邦の家系は、水野信元の弟(四男)水野忠守から始まります。水野忠守の嫡男の忠元は幼少から徳川秀忠に仕え、下総山川藩主となりました。その子忠善は、駿河国田中藩、三河国吉田藩を経て、岡崎藩主となり、その後、7代にわたり岡崎を治めました。岡崎4代目藩主である水野忠之は、享保の改革の際、勝手掛老中に任命され財政再建に尽力しました。その後、水野家は、岡崎藩から肥前唐津藩に移封されました。唐津藩では4代にわたり藩主を勤め、水野忠邦の時に、猛烈な転封運動の結果、浜松藩に転封となりました。水野忠邦が、盛んに浜松藩への転封を願ったのは老中就任を願っていたからだと言われています。そして、願い通り老中となり、天保の改革を実行しています。その子忠精の時、出羽山形藩へ転封となり、明治維新を迎えました。なお、水野忠精も老中となっています。
紀州藩付家老水野家は、徳川頼宣の付家老として入った水野重央(しげなか)が初代です。新宮に3万5000石を領していましたので、中小大名並みの知行を治めていました。しかし、知行は大名並みですが、あくまでも紀州徳川家の家臣でしたので、大名ではありませんでした。
紀州藩付家老水野家の初代水野重央(しげなか)は、水野信元の弟(七男)水野忠分(ただわけ)の子供で、水野忠分は、荒木村重を攻めた戦いで戦死し、嫡男の重央が跡を継ぎました。重央は関ヶ原の戦いなどで軍功をあげましたが、家康から十男頼宜の家老となるよう命じられました。頼宜が水戸から紀州に転封となるに従い、新宮に3万5千石を拝領しました。
以上が、江戸時代、大名として栄えた水野諸家ですが、水野宗家は水野信元の跡を継いだ水野忠重から始まり、忠政⇒勝成と続き、明治維新を結城藩主として迎えた水野家です。そして、多くの老中を出した水野家は、それぞれ分家筋です。
また、嫡男信元の跡を継いだ末弟(八男)の水野忠重の子孫が水野家宗家である結城藩水野家、四男の忠守の子孫が水野忠邦の出た山形藩、七男の忠分(ただわけ)の子孫が紀州藩付家老水野家となります。そして、沼津藩水野家と鶴巻藩水野家は、江戸時代初期の水野宗家の当主であった水野勝成の弟水野忠清の子孫ということになります。

