久松長家、信元誅殺に怒る(「どうする家康」85)
「どうする家康」第23回で、久松長家が、水野信元の誅殺で一定の役割を果たし、その後、上之郷城に戻って隠居すると於大に告げる場面がありましたが、これは概ね史実と思われます。
新井白石が編纂した『藩翰譜』の中の「松平久松」に下記のように書かれています。『藩翰譜』は新井白石が甲府藩主徳川綱豊(後の6代将軍徳川家宣)に命じられ編纂したもので、当時の大名家の経歴と系譜を調べて記録したものです。なお、久松長家の名前は、『藩翰譜』では俊勝となっています。
「天正3年12月、水野下野守殿(信元)。武田の四郎(勝頼)に心を合わせられたりとて誅せらるべきよし、信長の仰せられしに因りて、徳川殿力なく、俊勝して岡崎に呼び迎えて信元を誅せらる。俊勝大いに驚き、かかる事とも知らずして、信元迎え来て討たせたりし事の無慙(むざん:ゆゆしき罪)さよ、世の人のかへり聞かん事も恥しとて徳川殿を深く怨み、中違い(なかたがい)こそしたりけれ、(俊勝卒の事、いづれの年月日ということはいまだしらず)」
これによると、家康の命令により、久松長家(俊勝)は、水野信元が誅殺されるとも知らずに岡崎に呼び寄せる役を果たしたことを大変な罪だと後悔し、家康を深く怨んで仲違いしたと書いてあります。『藩翰譜』には隠居したとは書いてありませんが、仲違いしたと書いてありますので、家康と久松長家との関係は相当悪化したと思われます。『藩翰譜』には上之郷城に隠居したとは書いてないので、『寛政重修諸家譜』も調べてみましたが、『寛政重修諸家譜』にも隠居のことは書いてありませんでした。
久松長家が家康と仲違いしたということは、久松長家にとって水野信元は妻於大の兄ですので、妻於大の気持ちを慮っての対応かもしれません。
久松長家と於大との間には3人の男子がありました。康元、康俊、定勝の3人でした。康元は、家康が江戸に入府した後、関宿城主となりましたが、康元の家系は、その後、無嗣断絶となります。
康俊については、以前書いたことがありますので、過去の記事をお読みください。
兄弟の中で最も栄えたのが定勝の家系です。定勝は関ヶ原の戦いの後、掛川城主となり、元和3年(1617)には、伊勢桑名藩11万石の城主となりました。その後定勝の嫡子定行が伊予松山藩に移封されそのまま長く松山を治め伊予松山藩主として明治維新を迎えました。また、定勝の三男定綱から始まる分家が伊勢桑名藩主として明治維新を迎えました。
寛政の改革を実行したことで有名な松平定信は、田安家に生まれ、当時は白河藩主であった分家筋の松平家の養子となり、11代将軍家斉を補佐する老中となりました。

