築山殿・信康事件はなぜ起きたか?(「どうする家康」86)
「どうする家康」第24回では、築山殿の構想が語られ、それに武田勝頼・徳川家康がともに賛同し密約を結ぶという話の展開でした。
築山殿・信康事件は、正妻築山殿と嫡子信康を同時に失うという家康にとっての重大事件でした。しかし、重大事件の割には、史実を伝える史料がほどんどないため、どうして、このような事件が起きたかについて諸説があります。
いろいろな説を詳細に書くことができませんが、幸いにも『シリーズ織豊大名の研究10 徳川家康』(柴裕之編)収録の『信康・築山殿事件』(新行紀一著)の中で新行紀一氏がまとめてくれています。
それによると、「大別して謀叛説・謀略説・冤罪説にわけられる」ようです。
謀叛説とは、築山殿が家康に冷遇されたことを怨んで信康をひき込み、武田方に内応して謀反を企てたという説です。先日紹介した『改正三河後風土記』の話などは、この謀反説に入ると思います。
謀略説とは、家康と信康の間の離間を進めるため信康が武田家に内応したという噂を武田家側が流布して、ことが大きくなったという説です。
冤罪説には二つあるようです。そのうちの一つは『三河物語』が書いている内容で酒井忠次が讒言したためとする説です。もう一つは信康が武将としての能力に勝れていたために信長が信忠の将来を考えて殺害させたという説です。
新行紀一氏は、「結論をいえば謀叛ないしはそれに近い事実はあったのではなかろうか」と書いています。
「どうする家康」の物語展開は、築山殿が武田家と手を結ぶという策をとろうとしているのですから、大別した諸説のなかでは謀反説に基づいた内容だと思います。しかし、一貫して家康と築山殿の関係は良好だったという流れに沿っていますので、「どうする家康」なりの独自解釈かもしれません。一方、家康と勝頼の密約などは確認されていませんので完全に創作に基づく展開だとも言えるかもしれません。
次回には、ついに築山殿の殺害、信康の自刃という最終段階が描かれます。
五徳が築山殿と信康の罪状を信長にどう伝えるか、また家康が二人の処罰をどう決断するかなどが注目されると思います。

