築山殿のお墓のある西来院(徳川家康ゆかりの地47《浜松⑦》)
築山殿は、天正7年(1579)8月29日、浜松に向かう途中の佐鳴湖(さなるこ)の湖岸で、徳川家康の命令によって、殺害されました。『浜松市史』によれば、築山殿は姫街道を通り三ケ日に至り、そこから浜名湖をわたり、宇布見から入野を経て佐鳴湖に出て小藪で上陸し浜松城に入る予定であったが、佐鳴湖岸に上陸したあとまもなくに殺害されています。そして、浜松の西来院(せいらいいん)に埋葬されました。
西来院は浜松市中区にあります。この西来院を今年の1月に訪問しましたので、今日は西来院についてご紹介します。
西来院は、曹洞宗の寺院で山号は高松山(こうしょうざん)と称します。室町時代前期の正長元年(1428)に月窓義運禅師に開創された寺院です。ご本尊は釈迦牟尼如来です。下写真が本堂ですが、昭和20年の浜松の大空襲で境内の諸堂が焼失してしまい、昭和33年に再建されたものです。非常に近代的な外観です。

築山殿のお墓は、本堂の西側の月窟廟にあります。下写真が月窟廟の外観です。
築山殿が亡くなった後、家康は西来院の時の住職溈翁に埋葬を命じたそうです。御住職のお話では、築山殿の霊廟も築造されていたが火事により焼失してしまいましたと西来院には伝わっているとのことです。その後、再建された廟も、昭和20年の戦災で焼失してしまいました。現在の月窟廟は、昭和51年に匿名の方により再建されたものだそうです。

下写真が墓碑です。正面に築山殿の法名「清池院殿譚月秋天大禅定法尼」が刻まれています。築山殿の最初の法名は「西来院殿政岩秀貞大姉」もしくは「西光院殿」でしたが、4代将軍家綱の時代に、築山殿の100回忌が催行され、その際に、現在の法名「清池院殿譚月秋天大禅定法尼」に替えられたという御住職のご説明でした。墓碑はコンクリートで固められています。これは、昭和20年の空襲で墓碑が破壊されてしまったため、それをコンクリートで修復したことによるものですだそうです。

築山殿の殺害を命じられたのは野中重政と岡本時仲だったと言われています。その一人野中重政について、西来院の掲示板の説明には「主君の命とはいいながら、築山殿の首級(みしるし)をあげた野中三五郎重政は悔恨の情で悶々と日を送り、遂に水戸に走ったと伝えられている。その後、重政は入野村庄屋喜平治(家系現存・鈴木氏)に、ねんごろな廟前への代参、その他を託したりし、五十年毎の大法要には廟前に燈籠一基ずつを奉献して現に二基存し、二基は地輪のみ保存している。」と書いてありました。現存している二基の灯籠とは月窟廟の前にある二基の灯籠と思われます。(下写真の両サイドに灯籠があります)

築山殿のお墓の西隣には、家康の異父弟の松平康俊のお墓があります。墓所は塀で囲まれていて門もあります。(下写真)

お墓には「善照院殿泉月澄清大居士」と刻まれています。

松平康俊については下記記事で詳しく書いてあります。
下地図中央が西来院です。

