松平信康の最期の様子(「どうする家康」90)
前回は『三河物語』に書かれている松平信康の切腹迄の経緯を書きました。それを読んでいただいてわかるように『三河物語』には、信康の最期の様子は詳しくは書かれていません。一方、『改正三河後風土記』には、信康の最期の様子がより詳しく書いてあります。そこで今日は『改正三河後風土記』が書く松平信康の最期の様子について書いていきます。
『改正三河後風土記』の巻第十六の「信康君築山殿御生害」の中に信康の最期の様子が書かれています。そこに書かれている信康の最期に関する部分を原文にそって現代語風に改めて書いてみます。なお、『改正三河後風土記』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。
8月1日、家康は信長に命令に従う旨の返答をし、3日に信康を大浜へ移し、9日大浜より遠州堀江の城に移し10日には同国二俣の城に移し大久保忠世に預けた。これは大久保忠世が(信康に)随って山間僻地に落とすという(家康の)考えで会ったが忠世はその考えを理解しなかったかあるいは別に思うところがあったのか(わからないが)厳しく警備して日数を過ごした。
(中略:ここでは、平岩親吉から親吉の首を斬って信長に差し出し信康を助命するようにという申出を家康が拒絶したことが書かれている)
さて、信康は腹を召すことに決まり、9月15日天方山城守通綱と服部半蔵正成を二俣城に使いとして派遣し家康の命令を伝えた。信康は二人に向かって「今更何も言うべきではないが、私が(徳川家を)裏切って勝頼に通じるなどということは全く思ってもみない事であった。このことは私が死んだ後でもいいから父上にお前たちからよくよく申し上げてくれよ」と涙したので、天方山城守と服部半蔵は「そのことは私たちの一身にかえて申し上げます」と言うと信康は大変うれしそうに笑い「今は此の世に思い残すことはない」と言って潔く切腹した。
服部半蔵は信康と親しかったので「介錯を頼む」と言われたが、仰ぎみる信康の姿のあまりのいたわしさに鬼と呼ばれた服部半蔵もうち伏せて涙に咽(むせ)んで手が出せないので天方山城守は手間取っては苦痛を増すことになり恐れ入るので私が介錯させていただきますといって介錯をした。(この時の刀は村正であったという)。
二俣城の山続きの小松林の庵室で火葬し謄雲院殿達岩善道大居士と追号し葬儀を懇ろに営んで天方山城守と服部半蔵が浜松に帰り、信康の様子を逐一申し上げると家康は何も言わなかった。(中略)信康を埋葬した地はその後、寺を建立し清瀧寺と称し、御法名も清瀧寺殿と改めた。大樹寺での法名は常法院殿隆岩長越大居士と言った。御年もわずかに22歳で父親にも勝るほどの武略の人物なのにと徳川家はもちろん他の家でも惜しまれた。
『改正三河後風土記』には、このように信康の最期が詳しく書いてあります。「どうする家康」での描き方とは違っていることがわかると思います。なお、信康の法名については『改正三河後風土記』に書かれている通りとしてあります。
『改正三河後風土記』には、このように書かれた後、服部半蔵と天方山城守について次のような逸話も書かれています。
信康事件の後に、服部半蔵が家康の御前にあった時に「鬼と言われる半蔵も主(しゅ)の首は討ち難かったか」と家康が言った。これを伝え聞いた天方山城守は大変恐れ入って遂に逐電して高野山に閑居してしまい、数年たった後に、越前の秀康に仕えたという。
家康の命令が実行できなかった服部半蔵が家康から咎められることなく、命令を実行した天方山城守が家康を怖れるということをどう評価したらいいのか、いろいろな意見があるようですが、この服部半蔵の話はかなり知られていますので、この逸話も紹介しておきます。

