松平信康供養のため建立された小田原萬松院(徳川家康ゆかりの地50)
前回は、服部半蔵正成が松平信康の供養のため西念寺を建立したとかきましたが、松平信康が切腹した時の二俣城主であった大久保忠世も松平信康の供養のために寺院を建立しています。この大久保忠世が松平信康の供養のため建立したのが小田原の萬松院です。一昨日、萬松院にもお参りしてきましたので、今日は、萬松院をご案内します。下写真が萬松院の本堂です。

松平信康は天正7年9月15日に二俣城で切腹しましたが、その二俣城の城主だったのが大久保忠世でした。天正3年(1575)5月21日の長篠の戦いの後、家康は、6月に二俣城の攻撃に着手し12月に攻略しました。その後、二俣城主に命じられたのが大久保忠世でした。
大久保忠世は、天文元年(1532)、大久保忠員の長男として誕生していますので、天文11年(1542)生まれの徳川家康より10歳年上となります。大久保忠世は、三河一向一揆で大久保一族の一員として戦い、三方ヶ原の戦いや長篠の戦いにも参陣し、武功を挙げました。長篠の戦いにおいては、弟の忠佐(ただすけ)とともに激しく戦う姿が「長篠合戦図屏風」に描かれています。二俣城主を命じられたのはこうした武功が評価されたのだと思われます。
天正18年(1590)小田原征伐により北条氏が滅び、家康は関東に入国することになります。その際に、それまで二俣城主であった大久保忠世は、小田原城4万5千石を拝領しました。
小田原城主となった大久保忠世が、入城の翌々年の文禄元年(1592)に松平信康を供養するために位牌所として建立したのが、小田原市風祭の萬松院です。
『三河物語』や『改正三河後風土記』には、大久保忠世が、松平信康の切腹の際にどのように関わったのか全く書いてありません。しかし、二俣城主でしたので、実際は大いに関わっていたことは想像に難くありません。そうしたことから松平信康の冥福を祈る気持ちは強かったものと思われます。そのため、萬松院を建立したものと思われます。なお、『三河物語』を書いた大久保忠教(ただたか)の長兄が大久保忠世です。
萬松院は、箱根登山鉄道風祭駅から徒歩5分の距離にあります。山号を清瀧山といい、曹洞宗のお寺です。清瀧山という山号は、松平信康の法名「清瀧寺殿前三州達岩善通大居士」に由来するものだと思われます。
下写真が庫裏(くり)ですが、本堂の右手にあり茅葺きの建物で、寛政12年(1800)に建築されたものです。

松平信康の供養塔は、本堂の北西にある墓所の一番奥にありました。下写真が墓所入口の看板です。

入口を入り右手奥の高台の最奥に松平信康の供養塔があります。(下写真)松平信康の供養塔は新しいものですが、令和3年に建てられたものだそうです。

松平信康の供養塔のすぐそばに美濃国の鵜沼城主だった大澤正秀と三男の正重の五輪塔があります。(下写真)。このお墓が信康のものとされてきたそうですが、令和3年に松平信康の供養塔が新たな建てられたという経緯があるようです。

大久保忠世は、文禄3年9月15日に小田原城内で亡くなりました。そして、小田原市にある大久寺に埋葬されました。大久寺は、大久保忠世が創建したお寺です。大久寺も萬松院からあまり離れてないので、一昨日お参りしてきました。下写真が本堂です。

大久寺は、箱根登山鉄道箱根板橋駅から徒歩5分の距離にあります。
大久寺は、慶長19年(1614)、2代忠隣(ただちか)の時に大久保家が改易となったため衰退し、寛永10年(1633)には、忠隣の次男忠聡(石川家成の養子となり石川忠聡と称した)により江戸下谷に移転しました。その後、一族の大久保康任が、もとの地に石塔、位牌を戻し、大久寺を再建したといいます。
本堂に西北には、大久保忠世のほか、2代大久保忠隣(ただちか)など大久保一族のお墓があります。大久保一族のお墓は小田原市の文化財に指定されています。(下写真)

一族のお墓の中央に建っているのが大久保忠世のお墓です。(下写真)

大久保家は、大久保隣の孫の大久保忠朝の代に小田原藩主と復帰します。それ以降長く小田原を治め、小田原藩主として明治を迎えました。
そうしたことから、小田原市城山三丁目に、大久保忠世を祭神とする大久保神社があります。大久保神社は、大久保忠世を祭神として、明治26年(1893)小田原城天守台跡に創建されましたが、小田原城天守台跡が御用邸となったため、明治33年に現在地に遷宮したといいます。(下写真が社殿です。)

下地図中央が萬松院です。
下地図中央が大久寺です。
下地図中央が大久保神社です。

