五徳、信長に築山殿・信康を訴える(「どうする家康」91)
「築山殿・信康事件」の発端は、信康の正室五徳が築山殿や信康の行動を十二ヶ条にまとめて信長に手紙で送ったことと言われています。しかし、『三河物語』には、十二ヶ条の内容がどんなものであったかについて書いてありません。新行紀一氏によれば『松平記』には書いてあるとのことですが、『松平記』は翻刻されたものがありませんので私は確認できません。しかし、『改正三河後風土記』に五徳が信長に送った手紙の内容が詳しく書かれていましたので、今日は、その内容を紹介します。
『三河物語』では五徳が信長に訴えたのは十二ヶ条だったとされていますが、『改正三河後風土記』に書かれているのは次の八ヶ条だけです。
一、築山殿は悪人で、様々な讒言をして信康殿と私(五徳)の仲を不和にしようとすること
一、私が産んだのは女の子二人だけなので、「(五徳は)用にたたない。男の子が大事なのだ」と言って、「側室を数多く召し抱えて男の子を産め」と築山殿がすすめるので、(信康殿が)武田勝頼の家臣日向大和守の娘を呼び出して側室としたこと。
一、築山殿が甲州の浪人医師の減敬という者と密会し、減敬を使者として勝頼に内通し、さらに信康殿も甲州に内通するよう勧めたこと
一、(勝頼が)織田信長と徳川家康を亡き者とし、信康殿に家康の所領、さらに織田家の所領の国を与えること、築山殿を小山田という侍の妻とする約束の起請文を書いて築山殿に送ったこと
ここまでの四ヶ条は築山度に関する事項です。そして次の四ヶ条は信康に関する項目です。
一、信康殿は、常々、乱暴な行いが多く、私の召使の小侍従という女を私の目の前で刺殺し、その上その女の口を引き裂いたこと
一、以前、信康殿が踊りが好きで、それを見ていた時、踊り子の衣装がよくないうえ踊り自体が上手くないといって、その踊り子を弓で射殺したこと。
一、信康殿が鷹狩りに行った際、途中で僧侶を見つけ、今日獲物がないのはこの坊主にあったからだとして、その僧侶の首に縄をつけて、乗っている馬の馬具に結んで、その僧侶をひき殺したこと
一、勝頼の手紙のなかにも、信康殿がまだ味方にならないので何としても味方にすべきだと書いてありますので、御油断していると、将来的に武田に組することになると思いますので、わざわざ申し上げます。
このように五徳が信長に手紙で知らせたと書いてありますが、五徳が、こうした情報を信長に送るようになった経緯についても『改正三河後風土記』に書かれていますので、『改正三河後風土記』に沿って書いてみます。
築山殿が、勝頼から誓詞をもらい、武田家に内通することになりました。(※築山殿が武田勝頼に内通するまでの経緯は以前書きました。改めて確認したい方は下記記事を御覧ください。)築山殿の武田勝頼への内通の企て
築山殿が武田家に内通したものの信康が内通するまでには時間がかかるので、それ以前に築山殿だけを甲州に迎え小山田の妻にすると勝頼から連絡がありました。築山殿は嬉しくなり、出発の準備を始めました。五徳に仕える家臣に藤川久兵衛という侍がいましたが、その娘の一人が築山殿に仕え、その妹は五徳に仕えていました。その姉の方が、築山殿の様子の変化を不審に思い、築山殿が秘かに隠していた手箱の中に勝頼から届いた誓詞があるのを見つけました。読んでみると、織田信長や徳川家康を討ち滅ぼすという内容で大変驚きましたが、姉はその誓詞をそのまま手箱に戻し、五徳に仕える妹を通じて五徳に連絡しました。
五徳は、その頃、妬(ねた)み怨(うら)みでやるせなく思っていたので、父信長を討ち滅ぼすとの計画を聞いて憤りが深くなりこのままにしておくわけにはいかないとして、信康の芳しくない行跡や築山殿の見苦しい行為などを詳しく書いて父信長に秘かに知らせました。その内容が冒頭に書いた内容です。
「どうする家康」では、築山殿が自らを悪人として信長に訴えるように五徳を説得するという展開でしたので、『改正三河後風土記』に書いてあることとは違っているようです。しかし、酒井忠次が信長の前で読み上げた築山殿と信康の行動は①築山殿が信康と五徳の間を不仲にさせてようとしたこと②信康が鷹狩りの帰りに僧侶を引きずり殺したことの二つでした。これは『改正三河後風土記』に書かれていることですね。

