築山殿、浜松の佐鳴湖畔で死す(「どうする家康」92)
築山殿は、天正7年(1579)8月に亡くなりました。『浜松市史』には「築山殿は本坂道(姫街道)を三ケ日にでて、そこから浜名湖をわたり、宇布見(うぶみ)から入野(いりの)をへて佐鳴(さなる)湖に出て小藪(こやぶ)で上陸し、浜松城に入ることにした。小藪は佐鳴湖東岸の小さな部落である。小藪から浜松城へ向かう途中、湖畔から約500メートルで蜆塚(しじみづか)の台地となるが、その台地の下(御前谷という)で築山殿は殺され、西来院(せいらいいん)に葬られた。時に8月晦日(みそか)」と書かれています。
しかし、『三河物語』には、築山殿の最期の様子は全く触れていません。一方、『改正三河後風土記』の『信康君築山殿御生害』という項に簡単ですが築山殿の最期が書かれていますので、それを紹介します。
「築山殿は恐ろしい企みがあることが確実となったため、8月29日、野中三五郎重政に築山殿を討ち果たしてこいと命じ、白井・奥山・中根という侍三人を添えられた。野中重政は小藪村で(築山殿)を殺害した。(築山殿の)遺骸は浜松の西来院という禅寺に埋葬した。法名を西光院殿政岩秀貞大姉といい、後の延宝6年(1678)の百回忌にあたった時、寺領を拝領し清池院殿(せいちいんでん)と改めたが、大樹寺ではなお西光院殿と言っていた。」
『改正三河後風土記』ではその直後のカッコ書きの中で築山殿を討った野中重政について、「野中重政が築山殿を討って帰り、その旨を報告すると、家康は『(築山殿は)女なんだから尼となって何方(いずかた)へ落としたらいいものを、浅い考えで(築山殿を)討ち果たしたのか』と言ったので、野中重政は大変恐れ入って故郷の遠州堀江村に蟄居したという。」と書いてあります。これによると、家康は築山殿を殺害せずにこっそり逃がそうという考えがあったようです。同じように『改正三河後風土記』には信康に関しても「9日大浜より遠州堀江の城に移し10日には同国二俣の城に移し大久保忠世に預けた。これは大久保忠世が(信康に)随って山間僻地に落とすという(家康の)考えであったが、忠世はその考えを理解しなかったかあるいは別に思うところがあったのか(わからないが)厳しく警備して日数を過ごした。」と書いてあり、信康についてもこっそり逃がそうという考えがあったとしています。
こうした記述が、築山殿・信康事件の真実に沿ったものかどうかはわかりません。『改正三河後風土記』は江戸時代後期に編纂されたものであり、当時の将軍にも献上されたものであるということを頭の隅において読む必要はあるとは思いますが、参考に付記しておきます。
現在、浜松市西区に、築山殿を殺害した場所に関連した「太刀洗の池」という史跡があります。築山殿を討った家臣が太刀を洗ったため、その名が付いたと言われています。現在は、池は埋め立てられてしまい、説明板があるだけです。今年の1月に訪ねてみようと思いましたが、工事中とのことで断念しました。下地図中央が「太刀洗の池」です。

