武田勝頼、天目山に死す(「どうする家康」93)
「どうする家康」第26回は、冒頭には天正9年(1581)の天神城落城も描かれていましたが、中心は武田家の滅亡およびその後の信長接待が描かれていて一気に天正10年(1582)まで築山殿信康事件の起きた天正7年から3年間飛びました。
今日は、まず武田家の滅亡について書いていきます。織田信忠が岐阜城を出陣したのが2月12日で、武田勝頼が天目山で亡くなり、武田家が滅亡したのは天正10年3月11日のことです。たった1ヶ月で武田家は滅亡してしまいました。
武田家滅亡の直接のきっかけとなったのが、信濃木曽谷を領有していた木曽義昌の織田家内通でした。木曽義昌は武田信玄の三女真理姫(真竜院)を妻に迎えていましたので、一門衆の一人でした。その木曽義昌は天正10年1月の末には内通する旨を織田信忠に伝えたといいます。木曽義昌の内通を知った勝頼はただちに木曽義昌攻撃を決意し2月2日諏訪に向けて出陣しました。
一方、織田信長は2月3日に武田家総攻撃を命じ、織田信忠は伊那口から、金森長近は飛騨口から、そして徳川家康には駿河口から侵攻するよう指令しました。信忠は2月12日岐阜城を出陣し岩村城を経由して信濃に侵攻し、徳川家康は2月18日に浜松城を出陣し20日に大井川を越えて駿河に侵攻しました。
こうした状況の中で諏訪まで出陣していた勝頼は、2月28日に新府城に帰りました。しかし、新府城は前年から築城し始めていた城で、まだ建築途中で防御も不十分なことから、甲斐国都留郡(郡内)領主であり重臣であった小山田信茂が郡内の岩殿城へ落ち延びるよう進言し、3月3日、新府城に火を放って小山田信茂の居城である大月の岩殿城に向かいました。しかし、小山田信茂は最後の最後に勝頼を裏切り、都留郡内に入ることを拒みました。信茂の裏切りを知った勝頼は、信茂に騙されたことを深く悔しがったといいます。勝頼は、やむえず先祖の武田信満が上杉禅秀の乱で戦死した天目山を死地と定め天目山に向かいました。11日に天目山近くの田野(甲州市大和町田野)まできた時、滝川一益の軍に攻められ、勝頼は、最後まで一緒にきた北条夫人(北条氏政の妹)や嫡男信勝(信長の姪である勝頼の正室との間にできた男子)とともに自刃しました。新府城を出た時は600余名の将兵で、勝頼に最後まで従っていたのは41名だったと言われています。
勝頼の首は信長のもとに送られ、信長は14日に信濃国浪合(長野県阿智村)で首実検し、その後、勝頼の首は京都に送られたといいます。「どうする家康」では、家康が勝頼の首実検に立ち会う場面がありましたが、家康は19日に上諏訪で信長を迎えているので、家康は首実検には立ち合えていないと思われます。
ところで、「天目山」は、武田勝頼が自刃し武田家が滅亡した地として有名です。そこで、「天目山」を改めてGoogle Mapで探したところ、「天目山」という山がみつからないので驚きました。これについて、調べると『武田氏滅亡』(平山優著)に、「『天目山』というのは天目山棲雲寺(せいうんじ)のある地域一帯の通称で、実際にはそのような山はない」と書いてあり、「天目山」という山がないことが確認できました。
Google Mapで確認すると、山梨県甲州市大和町に「棲雲寺(せいうんじ)」というお寺がみつかり、そのお寺の山号が天目山でした。ご参考に下記に紹介しておきます。

