家康、信長の富士遊覧を接待する(「どうする家康」94)
「どうする家康」第26回の中心は、徳川家康が織田信長を接待して富士遊覧を堪能してもらうという展開でした。
信長の富士遊覧の際に家康が丁寧に接待したことについては、『東照宮御実紀(いわゆる『徳川実紀』)にも書かれていますが、『信長公記』の中の「信長公甲州より御帰城のこと」に非常に詳しく書かれています。それによると、信長が甲府を出発したのは4月10日で、安土城に帰城したのは4月21日でした。まる12日間かけて甲府から東海道を通って安土城まで戻ってきています。『信長公記』には宿泊した場所はもちろんのこと、信長を接待した茶屋が設置された場所まで丁寧に書かれていますので、それもあわせて紹介します。
それでは、信長の富士遊覧の行程を書いていきます。
信長が、甲府に入ったのは4月3日でした。そして、4月10日、甲府を出発しました。そして、この日は右左口(うばぐち・山梨県甲府市)に宿泊しました。
※家康は、信長の接待に相当力を注いだと思われます。それは『信長公記』の著者太田牛一もよく理解していたようです。信長公記』の10日の部分には、家康がどれだけ心をこめて接待したかが書かれていますので、それを紹介します。
「徳川家康公は念を入れて、路次通りを鉄砲丈を道幅として、竹木を切り払って、道路を広々と整備し、道の左右に隙間無く警固の兵を配備した。石を取り除き、水を引き入れ、陣屋を丈夫に建設し、二重三重に柵を設置した。そのうえ諸卒の小屋を千軒余り設けた。それを帰路の先々の宿泊所ごとに、屋形の周囲に設置した。そして諸士の朝夕の賄いを、家臣に事細かく指示した。信長公は家康の奔走ぶりを殊勝であると感心した。」(坂田善保訳注『訳注 信長公記』より)
4月11日、明け方に右左口を出発。柏坂(迦葉坂)を越えて本栖(山梨県南都留郡富士河口湖町本栖)に宿泊しました。柏坂には、茶屋が建設されていて一献進上しています。
※「どうする家康」では、本栖で信長が富士を眺める場面がありましたが、この日宿泊した本栖の様子についても太田牛一は次のように書いて家康の準備を賞賛しています。
「本栖においても御座所が豪華に輝くばかりに築いてあり、二重三重に柵を張り巡らしてあった。そのうえ、諸士の小屋を千軒余りも御殿の四方に拵え置き、上下の者の賄いを命じ、気の配り用は申し分の無いものであった。」(坂田善保訳注『訳注 信長公記』より)
4月12日、本栖を出発し、人穴(静岡県富士宮市)を見物しここで一献進上がありました。ここで上井手の丸山や白糸の滝の説明もあり、この日は、富士山本宮浅間大社に宿泊しました。
ここでも、太田牛一は、家康の接待ぶりを賞賛していますので紹介します。
「徳川家康は、浅間神社か要害の地にあるため、境内に御座所を設けた。一夜の宿泊とはいえ、金銀を鏤めて御座所の隅々まで絢爛に仕上げるよう命じた。御座所の四囲に諸陣の小屋が掛けてあり、行き届いた持て成しぶりであった。」
そして、こうした家康の懇切な接待に対して信長がお礼の品を進呈しています。太田牛一は次のように書いています。
「この宿泊地において信長公は、一、脇指 作は吉光、一、長刀 作は一文字、一、馬 黒駁(くろぶち)、以上を家康卿へ進呈した。どれも信長公の秘蔵の道具であった。」(坂田善保訳注『訳注 信長公記』より)
4月13日、浅間神社を出発し、浮島ヶ原や愛鷹山を見ながら富士川を渡り、蒲原に出ました。蒲原には茶屋が準備され一献献上されました。田子の浦では海辺で遊び、三保の松原や羽衣の松を見て、穴山信君の居城である江尻城に宿泊しました。
4月14日、江尻城を出発し、駿府に入りました。駿府では町の入り口に茶屋が設けられていて一献進上されました。その後、東海道での難所として有名な宇津ノ谷峠(藤枝市岡部町岡部)の登り口に茶屋が設けられ一献進上がありました。この日は田中城に泊まりました。
4月15日、田中城を出発。藤枝の瀬戸川の川端に茶屋が設けられ一献進上されました。島田を通り大井川を渡って、有名な小夜の中山に茶屋が設けられ一献進上がありました。この日は、掛川城に宿泊しました。
4月16日、掛川城を出発。三香野坂(磐田市三ケ野)に茶屋が設けられ一献進上ありました。その後、天竜川を船橋で渡って、浜松城に滞在しました。浜松城に到着すると信長は弓衆と鉄砲衆を残し、小姓衆や馬廻宗は先に帰らせました。
4月17日、浜松城を出発。今切の渡では御座船を用意し船着き場で一献進上したあと、今切の渡を船で渡り、汐見坂に茶屋が設けられ一献進上しました。そして吉田城に宿泊しました。
4月18日、吉田城を出発。御油に茶屋が設けられ一献進上し、山中の宝蔵寺の正面に茶屋を設けて住職などが挨拶に出ました。その後、岡崎城を眺めながら新しく架けられた矢作川の橋を渡りました。そして、池鯉鮒で宿泊しましたが、ここでは、家康の叔父水野忠重が饗応しました。(ここで家康の饗応役は終了したようです。)
その後、信長は、4月19日には清州城、4月20日には岐阜城と宿泊し、安土城に4月21日に到着しました。
このように、家康は12日間の行程のうち、4月10日から4月18日までの9日間にわたって毎日、富士山の裾野や東海道の名所と呼ばれる場所で必ず接待をしていますので、本当に大変だったと思います。それでも『信長公記』を読むと信長が大変満足した様子がわかりますので、努力した甲斐はあったようです。