徳川家康、穴山梅雪の道案内で甲州に入る(「どうする家康」95)
「どうする家康」第26回で描かれた武田家領への総攻撃の際に駿河口から攻撃した徳川家康に早い時期に内応したのが穴山信君(のぶただ)でした。家康は、穴山信君(のぶただ)の道案内で甲州に入りました。今日は、この穴山信君(のぶただ)について書きます。信君を以前は「のぶきみ」と呼ぶことが多かったのですが、最近は「のぶただ」と呼ばれていて、「どうする家康」でも「のぶただ」と呼んでいました。なお、穴山信君は、天正8年(1580)に出家して「梅雪斎不白」と号しましたので、穴山梅雪と呼ばれることが多く、「どうする家康」も以前は「穴山信君」でしたが第26回では「穴山梅雪」と表示されていました。そこで、ここでは穴山梅雪と表記します。
穴山梅雪は、父は穴山信友、母は武田信玄の姉南松院(なんしょういん)ですので、信玄の甥にあたる武田家の一門衆です。しかも穴山梅雪の妻は信玄の娘見松院(けんしょういん)です。従って、武田勝頼とは従兄弟であり、義理の兄弟でもあります。
「どうする家康」では、穴山梅雪は、武田勝頼よりずっと年上のように描かれていましたが、勝頼が生まれたのが天文15年(1546)で、穴山梅雪は天文10年(1541)生まれですので5歳だけの年上でした。ちなみに、山県昌景は永正12年(1515)生まれと言われているので勝頼よりも30歳年上ということになります。
穴山氏は、歴代、甲斐国巨摩郡(こまぐん)南部(現在の山梨県南巨摩郡南部町)、下山(南巨摩郡身延町)の領主でした。穴山氏が拠点とした下山城は、身延山久遠寺の麓にあります。その後、武田信玄が駿河に侵攻し、江尻(現在の静岡市清水区)に江尻城を築き、当初は山県昌景が江尻城代となりました。しかし、山県昌景が長篠の戦いで戦死した後、穴山梅雪が江尻城代となり、武田領としての駿河を支配していました。富士川は静岡県東部を流れる大河ですが、穴山梅雪の本領南部・下山は富士川の上流地域ですので、穴山信君が江尻城代となったのは、こうした地域性もあったのではないかと私は推測しています。
江尻城代は、武田領国内での駿河・遠江全般を統括する立場で重要な役目でした。しかし、甲府から遠く離れた場所にいることとなったため、勝頼との距離も遠くなりがちでした。例えば、穴山梅雪は、信玄時代には、北条・今川・浅井・朝倉・足利将軍家などとの取次役を勤めていましたが、相手方が滅亡したということもありますが、徐々に取次役としての役割が低下してきました。
さらに、駿河・遠江に対しては、西からは家康が攻勢を強めるなか、天正7年(1579)には甲相同盟が破棄され東から北条氏政が攻めて来るという厳しい情勢でした。その中で、天正9年(1581)3月高天神城が徳川軍に包囲され、勝頼の支援もなく落城しました。高天神城落城後の戦後処理を任されたのが穴山梅雪でしたが、勝頼が高天神城を救援しなかったことから、勝頼に不満・不安を感じたようです。
さらに、穴山氏は、梅雪も父信友も正室を武田家当主の娘を迎えています。その慣例に従い、梅雪の嫡男勝千代には、勝頼の娘を娶るということになっていましたが、その約束が違えられ、勝頼の娘は武田信豊の嫡男次郎の正室となることになったといいます。このことには、穴山梅雪が不快感をもっただけでなく見性院は激怒したといいます。
こうしたことが重なり、勝頼に強い不満をもつようになった穴山梅雪は、天正8年には、穴山梅雪は家康を通じて信長に内通したと考えられています。
家康は、天正10年2月20日駿河に侵攻ました。こうした情勢の下、穴山梅雪は、2月25日、甲府に留めおかれた正室見性院や嫡子勝千代らの人質を奪いかえし、謀反を鮮明にしました。梅雪の謀反を受けて勝頼は、28日に急遽諏訪から新府城に帰還しています。3月1日、家康は穴山梅雪の降伏と江尻城の開城を発表し、江尻城に入城しています。
そして、3月7日、徳川家康は甲斐に向けて動き出し、穴山梅雪を案内役とし富士川沿いに進軍し3月8日には万沢(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に進み、3月10日には、市川(山梨県西八代郡市川三郷町)に到着しています。そして、3月20日、穴山梅雪は家康に伴われて、信長に面会し、本領を安堵され、3月29日、正式に江尻城と江尻領を安堵されています。
信長は、富士遊覧の際に、江尻城に宿泊していますが、穴山梅雪はそれこそ下にもおかない饗応振りだったろうと思います。