家康、高天神城の将兵を皆殺しにする(「どうする家康」96)
「どうする家康」第26回の冒頭は、高天神城の落城でした。高天神城を守る岡部元信から降伏を告げる矢文が届けられたものの、織田信長は降伏を拒否し、その決定に従って、徳川家康は、高天神城を守る将兵を皆殺しにするという展開でした。このストーリーは史実通りですので、今日は、高天神城の落城とその影響について書いていきます。
天正3年(1575)の長篠の戦いの後、家康は攻勢に転じ、武田方に奪われていた遠江の城を次々と攻略していき、いよいよ家康は武田方の最重要拠点である高天神城への攻略に乗り出しましました。まず、天正6年(1578)、高天神城の西方約10キロに横須賀城を築城し、ここを拠点として小笠山砦など高天神城の周囲に6つの砦を築いて完全に包囲しました。
勝頼は陸上交通だけでなく、海上交通の拠点でもある高天神城を重視し、武田家が治める全領国から将兵を集め、城将岡部元信の指揮下に配置して徹底抗戦の構えをとりました。
天正7年(1579)になると、勝頼が越後国内で起きた内乱《御館の乱》で上杉景勝を支援したことから北条氏との同盟が崩壊し、勝頼は関東と駿河で北条氏の攻勢を受けました。一方、甲相同盟の崩壊を好機とみた家康は、高天神城への攻勢を強め補給路を断つ兵糧攻めの態勢を固めました。北条氏からの攻勢を受け防衛で手一杯の勝頼は、さらに天正8年末、上杉景勝から越中侵攻への軍事支援を求められました。こうした状況で勝頼は高天神城に援軍を送る余裕はまったくありませんでした。
徳川軍の包囲が厳重を極め、人っ子一人抜け出せない状況の中で、兵糧の尽きた高天神城の岡部元信は、天正9年1月、高天神城のほか岡部自身が管轄する滝堺・小山両城の引き渡しを条件に、城兵の助命を嘆願する矢文を送りました。これは、遠江国東端に残された武田領をすべて引き渡すことを意味していました。
この要請を受けた家康は、信長に開城の是非を問い合わせました。それに対して、信長の返事は、降伏を拒絶するというものでした。信長は、勝頼が援軍として出馬してくれば、ここで決着をつけることができるし、出馬せずに高天神城や小山・滝堺城を見捨てるようであれば、勝頼の信用は地に堕ちるだろうと考えていました。
そのため、家康は信長の指示通り高天神城の降伏を認めませんでした。
降伏を拒否された高天神城は、3月22日、勝頼からの援軍を得られないままに落城しました。降伏を拒否された岡部元信率いる城兵は徳川勢に突撃し、ほぼ全員が討死しました。
籠城していた将兵は、遠江・駿河だけでなく、甲斐・信濃、飛騨、上野など武田領国各地から集められていました。そのため、高天神落城が武田家中に与えた衝撃は、遠江・駿河だけでなく全領国に広まることとなり、高天神城を救援できなかった勝頼が信頼を失うきっかけとなりました。
こうした情勢を背景として、前回書いた通り江尻城代であった穴山梅雪が家康を通じて信長に内通することとなりました。

