武田氏滅亡の頃、家康は実質的には信長の家臣だったらしい(「どうする家康」97)
「どうする家康」第26回の冒頭場面は、前回書いた通り、高天神城の将兵を皆殺しにして落城させる話でした。
この場面で、松本潤さん演じる徳川家康は、2回「上様」と言っていました。
1回目は「降伏は受けいれるなと上様から言われておる。」であり、2回目は、降伏を受け入れるべきだ主張する本多忠勝に対して「いやなら帰ってもいいぞ。(降伏を受け入れるなというのは)上様の命じゃ」でした。
この家康のセリフの「上様」というのは、織田信長のことです。信長と家康との関係は、清州同盟を結んだころは、対等の関係でした。しかし、天正9年頃になると主従関係になっていたということを端的に表すセリフです。
これが事実なのか調べてみました。その結果、この頃になると、家康は、独立した大名ということではなく、実質的には信長の家臣の扱いだったようです。
『武田勝頼』で丸島和洋氏は、「(高天神城からの)矢文を受け、家康は事実上、服属していた『天下人』織田信長に対応を相談した。しかし、信長の返事は意外なものであった。降伏を拒絶するよう、家康に求めたのである。」と書いていて、赤字部分のように「家康は事実上信長に服属していた。」としています。(『武田勝頼』p321)
また、平山優氏は『武田氏滅亡』のなかで、「高天神城籠城衆は、1月20日頃、徳川軍の陣所に矢文を送り、降伏の意思を表明したらしい。家康と重臣らは協議の結果、その矢文を信長のもとへ転送し指示を仰いだ。」と書いていて、赤字部分のようにやはり家康は単独で決断をしていないとしています。(『武田氏滅亡』p475)
さらに、本多隆成氏は『徳川家康と武田氏』の中で、信長が3月29日に武田家の旧領のうち、甲斐を川尻秀隆、駿河を徳川家康、上野と滝川一益に与えるなどの知行割を行なったことを説明するなかで、「信長はすでに『家忠日記』天正8年9月23日条で『上様』とよばれたが、信長から知行地を宛行われたことで、主従関係にあったことがより明確になった」と書いていて、家康と信長は明確に主従関係にあったとしています。(『徳川家康と武田氏』p215)
本多勝成氏の文の中にでてくる『家忠日記』とは、深溝松平家当主の松平家忠が書き記した日記で家康の動向を記した貴重で良質は史料です。この『家忠日記』をみると、天正10年3月17日に「上様信濃諏訪まで御着にて、家康御越候」と書いてあります。さらに4月10日「上様甲府よりうば口(右左口)まで御成候」、4月11日「上様本栖まで御成候」といろいろな所で信長のことが「上様」と書かれていますので、徳川家家臣も信長を「上様」と呼んでいたことがわかります。
いろいろな研究者の皆様の見解からして、天正8年以降の家康は、信長との関係で見る限りでは、完全に独立した大名ではなく、実質的には信長の家臣の扱いだったように思います。
そうした中で、武田氏滅亡後、駿河一国を信長から新たに拝領したということになります。家康としては駿河を自分で切り取りたかったと思いますが、信長から拝領すると言う形になったわけですから、信長が満足するよう可能な限りの饗応をしたというのも理解できる気がします。