家康、甲斐入国後、勝頼を懇ろに供養する(「どうする家康」97)
武田勝頼の首実検について、『徳川実紀』を読むと「信長 勝頼父子の首実検をする」と「家康、勝頼の首を厚く礼遇する」に次のように書いてあります。
「《信長 勝頼父子の首実検をする》
信長は14日浪合で勝頼父子の首実検を行った。その時(信長は)『前の父、信玄は毎度我らに難題をいいかけて困らせた。首になっても上洛したいといったと聞いたが、お前が父の志を継いで上洛しろ。私もあとから京へ参る』と罵ると、すぐにその首を市川口の御陣へ送り、順々に検分させた。
《家康、勝頼の首を厚く礼遇する》
家康は、勝頼の首を白木の台に載せ上段に置き、厚く礼をほどこされ、『今日このような姿で対面しようとは思いもよらなかったが、未熟で無分別な気持ちによって数代続いた家や国を失われたのは気の毒なことだ』と御涙を浮かべられると、甲斐の国人たちはこれを聞き伝えて、この君(家康)ならばと親しみを抱いて慕った。(後略)」(『現代語訳徳川実紀家康公伝』p73~74より)
『徳川実紀』では、このように、家康は勝頼の首実検を甲斐国の市川で行い、信長と異なり厚く礼遇したと書いてあります。
しかし、『信長公記』を見ると家康は甲斐で勝頼の首実検をするのは困難だったように思われます。
『信長公記』には次のように書かれています。
「3月13日、信長公は岩村から根羽(ねばね)まで陣を進め、14日、平谷を打ち越し浪合(なみあい)に陣取った。この地において武田勝頼父子の首級を、関可兵衛、赤座助六郎か持参し、信長公に御覧に入れた。すぐさま矢部家定に命じ、飯田へ持って行かせた。15日、午の刻から雨脚が強く、その日は飯田に陣を据えた。勝頼父子の首級は飯田に掛け置いて、上下の者が見物した。(中略)
三月十六日、飯田逗留時に、信豊の首が届き、信長公へ御覧に入れた。(中略)武田勝頼、武田信勝、武田信豊、仁科盛信の四人の首は、長谷川宗仁に対して、京都へ上らせ獄門首にするよう命じ、上京させた。」(『訳注信長公記』p360~362より)
京都に送られた勝頼、信勝、信豊の首級は、京都で晒された後、臨済宗の京都妙心寺の南化元興の努力により、信長から南化元興に下賜され、妙心寺に埋葬され、現在も三人のお墓は妙心寺塔頭玉鳳院境内の開山堂近くにあるそうです。(平山優著『武田氏滅亡』より)
これを見ると、勝頼、嫡子信勝、信豊の首級は、飯田で晒されて、京都に送られていますので、勝頼の首級が市川に送られ、家康が勝頼の首級と対面することはできなかったと思われます。従って、『徳川実紀』に書かれているように家康が勝頼の首級に向かって懇ろに回向することはできなかったと思います。
しかし、家康は、信長が本能寺の変で亡くなった後の天正10年10月、信長の領国であった甲斐国を領有するようになってからは、勝頼の回向を懇ろに行っています。
家康は、勝頼が自刃した田野(たの)の地に勝頼の菩提寺田野寺を建立し、寺領として田野村一円を寄進しました。田野寺はのちに勝頼の法名「景徳院殿頼山勝公大居士」にちなんで景徳院と改称されています。景徳院の墓所には、勝頼の妻北条夫人、嫡子信勝のお墓もあるようです。
なお、勝頼の首級の行方については、『武田氏滅亡』(平山優著)の「終章残響」の中に詳しく書かれていますので、そちらもご参照ください。
景徳院はJR甲州大和駅から車で6分程度で行けるようですし、天目山栖雲寺(せいうんじ)も近くにあるので、機会があったらお参りしたいと思っています。下地図中央が景徳院です。