徳川家康、織田信から安土城で饗応を受ける(「どうする家康」99)
「どうする家康」第27回の前半は、徳川家康と穴山梅雪が織田信長から安土城で供応を受け、その席で明智光秀が失態をしでかすという展開でした。
この話は非常に有名で、本能寺の変を描く時には必ず出て来るシーンです。この有名な家康の饗応が比較的信憑性の高いと言われる『信長公記』にどう書かれているか確認してみました。
結論から言うと『信長公記』には、光秀の失態は全く書かれていません。『信長公記』には、徳川家康の接待については、信長は可能な限り善美を尽くして饗応するように命じたと書いてあり、その後、日程に沿って丁寧に書かれていますので、日程順に書いていきます。なお、『松平家忠日記』によれば、家康が浜松を出発したのは5月11日のことです。
5月14日、近江国番場(滋賀県米原市番場)では、丹羽長秀が仮殿を建て饗応の準備をして一夜の宿泊と饗応を行った。
5月15日、家康一行は安土に到着した。信長は饗応役に明智光秀を任命した。明智光秀は京都、堺から上物の食料を調達して大がかりな準備をした15日から17日までの3日間振る舞った。(※もし明智光秀の失態があったとすれば、ここに書かれるはずですが、まったく触れられていません。)
この間、信長は備中での毛利との戦況を聞いて、自ら出陣し中国を制圧しようと考え、明智光秀、細川忠興、池田恒興などを先陣として出陣するよう命じ、それぞれの現在の任務を解いた。(※ここで明智光秀は、毛利攻めのため饗応役の任を解かれることになります。)
5月17日、明智光秀は安土から坂本に帰城し出陣の準備をした。
5月19日、信長は安土山総見寺で、家康一行を招いて幸若八郎九郎の舞と梅若大夫の能が演じられた。この席で、幸若舞は上出来であったが、梅若太夫の能が不出来で、梅若太夫が叱責されるという出来事があった。
5月20日、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、菅屋長頼の四人による家康の饗応が行われた。この時、信長自身が、家康や伴の者たちの膳を据えた。
5月21日、家康が上洛した。
このように信長が盛大に家康を饗応した様子が書かれていますが、明智光秀の失態があったとはまったく書かれていません。
それでは『徳川実紀』はどうかというと『徳川実紀』には次のように簡単に書かれているだけです。
「家康、安土城に赴く
5月、君(家康のこと)は右府(信長のこと)の居城近江の安土城に赴かれると、穴山梅雪も従った。右府(信長) は立派な用意をしており、幸若舞、猿楽などを催し宴をひらき、(信長)自らが配膳し御供の人びとにも自ら給仕した。」(『現代語訳徳川実紀 家康公伝』より)
このように『信長公記』や『徳川実紀』には、明智光秀の失態はまったく書かれていません。
しかし、『川角(かわすみ)太平記』という書物には、明智光秀の用意した料理に匂いがしたという話が書いてありました。『川角太閤記』は、豊臣秀吉の家臣田中吉政に仕えた川角三郎右衛門が書いたとされる自分の体験や見聞をもとにした記録です。いろいろある『太閤記』のなかでは、比較的、信憑性が高いとされています。ただし、すべてが正しいわけではないようです。
『川角太平記』は国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができますので、私なりに現代語訳して書きます。
「家康卿は、駿河国を拝領した御礼のため、穴山梅雪を同道して上洛するとのことを聞き信長は明智光秀に宿を申し付けた。御馳走の肴の準備の様子を信長が見回ったところ、夏のためだと思われるが用意した生魚が腐っていたため、門に入ると風に乗ってひどい匂いがただよってくるほどであった。その匂いを嗅いで『もってのほかだ』と信長は料理の間に直接入り、この様子では家康の御馳走はできないと立腹して堀秀政に役目を申し付けた」
たしかに、『川角太閤記』には明智光秀が準備した魚のひどい匂いがして信長が立腹した話が書かれています。ただし、饗応の席での出来事ではなく下見の段階での出来事のようです。